「面従腹背」の評価

 たしか1月前くらいの話だが、文部科学省事務次官が、新任挨拶で「面従腹背はやめよう」と述べたという新聞記事を読んだ記憶がある。たしかに「きちんと議論をした上で、決まったことには従う」ということは常識的なルールであり、特に「組織」というものを前提に考えたときには重要なことなのだろう。また内心と外面を使い分けることは、人間性として好ましいことではないとも言えそうではある。それだけに、「面従腹背」は、マイナスのイメージの言葉として使われているのだと思う。
 しかし、本当にそう割り切って良いのか。自分の信念と異なる結論や指示が出された際、それに正面から逆らうことには相当の不利益を覚悟する必要があるだろうし、場合によっては、クビを覚悟でということにもなり兼ねない。「保身」ということも、行動原理としては、否定しきることはできないだろう。そうかと言って、その結論や指示に忠実に従うことは、本人の信念に反するのみならず、間違った結論や指示を補強することになる場合もあり得るし、ケースによっては、権威への盲従、意思決定の過程の不透明さなど、社会正義に反する結果にもつながり兼ねない。例えば、戦前・戦中の特高警察などの官憲が、職務命令に忠実に従い、あるいは上司の意向を忖度して過酷な行動に走った事実をどう評価するか。現在の我々の目から見れば、それが正しい行動だったとは言えないだろうし、むしろ「面従腹背」こそが望ましい行動だったとも言えそうである。
 「面従腹背」は、服従と反逆の中間にあるものなのかも知れない。「特高警察」ほど極端なケースでなくても、組織との摩擦を避けつつ、適当に手抜きをする方が適切な場合もあるのではないか。内部告発というのも、その一つのあり方だろう。「面従腹背」が正しいとは思わないが、それを頭から否定してかかることも、必ずしも正しいことだとは言えないような気がする。特に、為政者の恣意が強く働くようになっている昨今の世相を見ると、「面従腹背」にむしろ相応の位置づけをすべきだという気すらしないでもない。

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 ブログにも随分ご無沙汰してしまった。そこそこに元気にやっている積りだし,書きたいことがないわけでもないのだが、以前のようなノルマ(?)がなくなったせいか、ついつい書くのが億劫になってしまう。年齢のせいだとは思いたくないのだが、あるいはその要素も多分にあるのかも知れない。これからも折にふれて書いて行きたいとは思っているのだが、果たしていかがなものか・・・。