憲法を巡る私的な思い出

 昨日は憲法記念日、少々もっともらしいことを載せたが、今日は、憲法との連想で思い出した全く個人的なとりとめもない話を書く。


昭和20年、終戦の年の秋に、当時国民学校(現在の小学校)2年生だった私は韓国のソウルから引き揚げたのだが、引揚げ数日前の新聞に、写真とともに「総督府に翻る星条旗」という記事が載った。それを読んだ私は、かなり不快に感じた。なぜ日本の新聞が、占領軍の旗が翻るのを賛美した口調で書かなければならないのかという「怒り」だった。引揚げの途中でお会いした人に、そんなことをまくし立てた記憶がある。随分早熟なこどもだったとも思うし、軍国少年の残滓を引きずっていたという気もしないではない。もう一つ、それまで「鬼畜米英」と叫んでいた新聞が、突如として占領軍を「救世主」のように扱いはじめたことに対する反発もあったように思う。


昭和21年、新憲法公布の前の段階で、「9条」の非武装の記事が出たように思う。これまた私には不快だった。私の受け止め方は、「日本に対する懲罰として、連合軍が再軍備を禁止し、日本の生存権を否定した」という類のものだったと思う。その見方があながち間違っていたとは思わないが、これも軍国少年の残滓だったと言えなくもなさそうであり、「鬼畜米英」を基調とした軍国主義から一挙には抜け出し切れない庶民感情の一つの自然な流れだったような気もする。そうは言いながらも、終戦直後から、一部の醒めた人々は当然としても、占領軍に対する国民大衆の抵抗や反発があまりなかったのはなぜなのだろう。天皇を精神的支柱としていた当時の国民大衆の心をうまくつなぎ止めた連合国側の占領政策の成功、他方、思想的背景は別として国民全般に広がっていた厭戦気分、組織や「きまり」や協調を大事にするわれわれ日本人の「素直さ」・・・・それやこれやが複合した結果と見るべきなのだろうか。
その後、世界も日本も世の中も、そして私の考え方も変わって来た。いまでは、憲法9条は、その生まれた経緯は別として、原爆や東京大空襲をはじめとする悲惨な戦争を経験するとともにアジアの諸国を戦場として多大な被害を与えたわが国、そしていまや「経済大国」になったわが国にとって、先達が残してくれた貴重な財産だと思っている。


昭和27年、中学3年生のときだったと思うが、社会科の授業で、憲法25条のいわゆる生存権(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利)がテーマになった。私は、「憲法には、性格の異なる条文があると思う。一つは、国家を厳しく規制してその条項に反すれば直ちに憲法違反となるような性格の条文であり、もう一つは、国としての姿勢や理想を掲げたもので、それが実現しなくても直ちに憲法違反にはならないような性格の条文だ。この25条は後者に属するのではないか」という趣旨の発言をした。たまたま授業参観に来ておられた校長先生がすっかり感心され、「中学3年でそこまで考えているのか」とお褒めにあずかった記憶がある。


昭和33、4年頃、東大法学部在学中の憲法の先生は、宮沢俊義教授だった。当時は、宮沢教授のほか、国際法横田喜三郎教授、民法我妻栄教授、法哲学の尾高朝雄教授、政治思想史の丸山真男教授等、定年を目前に控えた名だたる教授が多数おられた。いまにして思えば、いまの私より10歳前後お若かったはずだが、いずれも老大家の風格のある先生方だったし、世間的にも知名度が高かった。ところが、現在の先生方となると、法学部の卒業生である私ですら、お名前を存じ上げている教授はほとんどおられない。当時の先生方は、戦前戦中の圧迫を耐えた後、いわば新しい法制に白紙で臨むとともに、その立案自体にも参画された方々だった。そこでは、新しい論理も必要となろうし、書く材料や話す材料はいくらでもある。それに引き換え、現在の先生方は、ほとんど同じ法制を材料としつつ、数十年にわたる先達の業績を踏まえて新しい道を拓いて行かなければならないわけだから、どうしても小粒に見えざるを得ないような気がする。法制が安定して来ると、法学部の教授は影が薄くなるという気がしないでもない。