小泉さんの論理(スペース・マガジン)

昨日に続いて、スペース・マガジンからの転載である。

<愚想管見>   小泉さんの論理                   西中眞二郎

 小泉総理の発言を新聞等で見ていると、結論の賛否は別として、一見もっともらしいけれど論理に欠如があるものが多いような気がする。いくつかの例を挙げてみよう。
――「社会保障」は誰でもやれるが、「郵政民営化」は自分でなければやれない。したがって、自分にとっては最重点項目だ――確固たる信念に基づく発言のように聞こえるが、一番肝腎な論点が欠けている。それは、「郵政民営化の必要性」についての説明・論証である。いくら「信念」があっても、必要のないことをやる必要はない。「改革」についても同様である。現在のわが国に「改革」すべき部分が多いことは事実だろうが、それだからと言って、やみくもに「改革」を進めなければならないほど、わが国が欠陥だらけだとは私は思わない。十分な論証がないままに、「改革」という言葉だけが一人歩きしているのではないかという疑念が付いて回らざるを得ない。
――イラク大量破壊兵器が見つからないからと言って、大量破壊兵器がなかったということにはならない――「あること」の証明は見付けさえすれば簡単だが、「ないこと」の完璧な証明はむずかしい。形式論理的には確かに総理発言の通りかも知れない。しかし、いくら探しても見つからないということは、「なかったことの正確な証明」にはならないとしても、「なかった可能性が限りなく高い」ということにはなる。その点を無視して、「あるという可能性」にすがるのは、論理のすりかえにほかならない。
――靖国参拝は、戦没者を慰霊し、平和を誓うためのものだ。そのどこが悪いのか。――個人としてどのような信念を持ち、どのような行動をするかは、その人の自由だ。しかし、一国の総理は、その国の代表者であり、また誰よりも「国益」を尊重しなければならない立場の人だ。自分の立場を考えず単なる個人の信念だけで行動されては、はた迷惑な話である。もう一つ、「慰霊・平和」は正しいとしても、そのための手段として靖国参拝が最適の方法かどうかについては、外国からの批判を待つまでもなく、国内的にも疑問を持つ人は多いだろう。総理の発言には、このような視点や論理が全く欠けている。
――人生いろいろ、会社もいろいろ――その通りである。しかし、それだからと言って、いやしくも一国の総理として、現在の社会では肯定されにくい自分の過去の行動を、正当化する根拠にはならないだろう。
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一般論として、論理に弱い人は「強い」と思う。なぜなら、論理に弱い人は、論理の欠陥を衝かれても痛痒を感じないからだ。われわれの周囲にも「いくら言ってもこちらの論理を理解してくれない」タイプの人がいるが、そうなると「あの人には言ってもムダだ」ということになり、その人の言い分がまかり通ってしまう場合がありそうである。加えて、弱みを衝かれてもそのことを気にしない「恥の感覚を欠いた人」と来れば、まさに「鬼に金棒」であり、天下無敵である。小泉総理がそうだとは言わないが――。なお、文中の総理発言は、私なりに要約したものであり、あるいは正確でない部分があるかも知れない。
<スペース・マガジン3月号所載>