小泉総理批判(大相撲その他)

  昨日小泉総理をテーマにしたものを載せたついでに(?)、今日も小泉さんについて触れてみたい。大分前に書いた未公開の雑文の、一部抜粋である。

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  ある知人の言によれば、「誰が総理になってもあまり世の中は変わらないと思っていたが、そうでもないんだね。」念のために言えば、これは小泉政権を評価しての発言ではなく、世の中がだんだん悪い方に向かっているというマイナス評価の発言である。
  ここで個々の政策を論評する積りはないが、「靖国参拝」に代表される小泉総理の行動パターンは、バランス感覚を欠き、論理を欠き、更には羞恥心を欠き、自分個人の「信念」という名の衝動だけに頼ってそれを頑迷に貫き通すという姿勢だと思う。

  小泉総理の悪口ばかり言うのも片手落ちだろう。少なくとも、北朝鮮に対する姿勢については、私は小泉さんをある程度評価している。その動機が奈辺にあったのかという勘ぐりは別として、いたずらに「世論」に同調することなく、北朝鮮との間にパイプを開き、さしも強硬に見えた世論もある程度手なずけてしまったことは、後世の歴史がどう評価するかは別として、小泉さんの「頑迷さ」がプラスに働いたひとつの成果だと思う。(本日の注:その後は評価すべき実績もないが、少なくとも安易な「強硬論」と一線を画していることは評価できると思っている。)

  話は悪口に戻る。私が早い時期に小泉総理の総理としての適格性を疑った出来事のひとつは、平成十三年大相撲夏場所貴乃花優勝の際の「感動した」発言だった。前日に怪我をし、当日の本割りでは武蔵丸と全く相撲にならなかった貴乃花が、優勝決定戦で奇蹟的に武蔵丸を破って優勝した場所の優勝者表彰の際の発言である。
  あの日の優勝決定戦の前の私の感想は、こんなことだった。①怪我人相手では、武蔵丸も力を出しにくいだろう②ここで無理をしては、貴乃花の土俵生命は終りになるのかも知れない。(本日の注:事実、そうなってしまった。)③お客を大事にという貴乃花の意欲は買うが、スポーツマンとしてはこの際休場すべきである。
  私の感想が正しかったかどうかは別として、優勝した貴乃花に対する小泉総理の「感動した」発言には、武蔵丸に対する同情もなく、ましてや私の感じたような屈折した感情は微塵もなく、怪我を押して敢闘した貴乃花に対する熱血少年小説的な反応だけだった。しかも、細かいことかも知れないが、「感動しました」ではなく「感動した」という表現は、その道の第一人者である横綱に対するセリフではなく、「自分より目下である若者」に対する傲慢なセリフだという印象を受けた。
  もう一つ私が抱いた抵抗感は、「総理は個人として国技館の土俵に上がっているのではない。個人的にどのような感想があろうとも、一国の総理として淡々と表彰状を渡すのがこの場の役割だ」ということである。ところが、小泉総理は、個人的な、しかも私に言わせれば偏った私的感想を土俵上で述べたのである。
  「この人はダメだな」とそのとき私は思った。それにも増して怖いと思ったのは、国技館を埋めた観衆から、ブーイングどころか熱烈な拍手が起こり、総理の「肉声」が評価され、その後「感動した」が流行語にまでなったということである。国民感情あるいは世論というものを余りアテにしてもいけないなというのが、そのときの私の強烈な印象だった。その「世論」がいまだに尾を引いているのではないか。
  ついでに言えば、小泉内閣成立の頃の小泉総理の人気の理由が、私にはいまだに判らない。「改革」と言い、「自民党をぶっ壊す」と言っても、その行く先は全く見えない。これでは、ひところの革命一辺倒の全学連と何ら異なるところはない。それに、小泉さんが女性に人気のあるキャラクターだったということは、私には永遠に理解できないことだろうと思う。

  小泉政権がどのような体質でいつまで続くのかは別として、小泉政権後の自民党の進む道が、私には全く見えて来ない。政策的には小泉流を継続して、微温的な国民政党から離れる方向に向かうのか、いわゆる抵抗派が主体となり比較的穏健ではあるが微温的なかっての自民党に戻るのか、それともそれ以外の第三の道があるのか、私としては、第三の道があることに期待したいが、もとよりそれがどのような道なのかは全く判らない。せめて、少なくとも小泉流の継続だけは避けて、微温的ではあってもバランス感覚を持った「国民政党」に戻って貰いたいと思っている。