カタカナの効用(外来語の扱い)

 お読み頂けばお判りと思うが、ある知友の書き物に対する私見をまとめ、御本人にも送ったものと、その後の応答、それにこのブログ用に書き足したものである。


カタカナの効用その他(メモ)

 以下は、私の敬愛するある人物の書いた文章である。彼は、高校教師を定年で退任の後、現在中国で日本語教師をしている。
「学生と話している中でよく、日本語の外来語が特にむずかしい、という悩みを聞かされる。授業中でもカタカナ語が出てくると、いちいち原語のスペリングを書いたり、英語の場合、英語らしく発音したりしなければ理解してもらえない。(中略)日本人の中にはそのことを忘れて、中国語は漢字しかないから外来語や外国語が書き表しにくくて不便ですねえ、などと分かったようなことを言ったり、堂々と書いたりする人さえいる。」
「以前、中国人には、外国語を適切な中国語に翻訳する創造力がないしカタカナに当たる字もないので、外国語をうまく取り入れられないので困っている、ということを大まじめに書いている週刊誌のコラムを読んだのを思い出したからだ。ともあれ、中国の学生は、外来語のカタカナ表記に苦労している。日本語を学ぶほかの国の人はどうなのだろうか?」
―――――――この内容について、同感の部分もあるが、私には別の考えもある。以下まとめてみようと思う。

<カタカナ外来語の評価>
 カタカナ外来語の増加には、さまざまな問題もあり、現在各種の「日本語化」の検討が進められていることは、周知の通りである。さまざまな意見があるところだろうが、私は「まあほどほどに」と思っている。このことは、上記の文章(以下、「知友説」と略記)やこのメモの根底をなす問題だとは思うが、知友説やこのメモの主題ではない。

<使う側から見た便利さ>
 外来語や外国語の固有名詞を、そのままカタカナで表現できることは、一番手っとり早い方法であり、上述の問題点を無視すれば、極めて便利でもある。中国の場合、それを漢字で表現するためには、多かれ少なかれ何らかの判断、評価、努力を必要とするだろう。また、文章の中にその種の単語が出て来た場合、内容が即座に判らなくても、日本文の中のカタカナなら「外来語か固有名詞だな」という見当が付くが、中国語の文章の中に漢字で出て来た場合、即座にその種の判断をすることはむずかしいのではないか。もっとも、この点は中国人の「文字識別感覚」が私には全く判らないので、確信を持った判断はでき兼ねるが。
 なお、主題から外れる全くの私の個人的感覚だが、新聞を例にとった場合、英字紙はアルファベットばかりなので、紙面のメリハリが利いていないような気がするし、漢字ばかりの中国語の場合も同様である。その点、日本語の新聞は、漢字あり、カタカナあり、ひらがなありで、紙面にバラエティーがあり、特に、漢字だけを一目見れば記事の主題程度は見当が付くというメリットもあるような気がする。

<外国人から見ての理解の難易>
 日本人にとって外来語のカタカナ表記は、一応メリットがあると思うが、それでは、外国人が日本語を使用する場合はどうか。
 知友説にもある通り、かなり問題かも知れない。日本語の言語構造や文法とは全く無関係な単語であるだけに、「正統派日本語」にある程度通じた人にとっては、最も難物なのかも知れないし、「外国人にとってカタカナ外来語が一番むずかしい」という話は良く耳にする。しかし、本当にそうか。そこには「英語をカタカナで書いてあるのだから、当然簡単に理解できるだろう」という相互の錯覚があるから、「思ったよりむずかしい」というだけの話であり、外国人が「これも日本語なのだから、ある程度むずかしくても当然だ」と思ってしまえば、また、日本人側も相手に理解されやすい方法(知友説にもある発音や原文書き等の方法)を工夫すれば、相対的にそれほどむずかしい話でもないのではないか。

<抑揚と母音>
 日本語の場合、言葉の抑揚は、地域によってさまざまである。「橋(はし)」という単語一つ取っても、関東と関西ではアクセントが違う。しかし、日本人の会話上は、それはほとんど支障にならない。しかし、例えばアメリカ人の英語に対する感覚の場合はアクセントにかなり重点を置いているような気がする。以前アメリカで「ペトロリューム」と言ってなかなか理解して貰えず、苦労した記憶がある。さまざまにアクセントを変えて発音してやっと理解して貰ったのだが、先方から「オイルのことだね」と言われて(もちろん英語で)、「何でわざわざむずかしい単語を使ったのだろう」とガックリ来たのは御愛嬌か。
 日本語の「ニューヨーク」と英語の「New York」では、アクセントが違う。口にした場合、「アクセント軽視族」の日本人にはおそらく「New York」でも通じるだろうが、「アクセント重視族」の英米人には「ニューヨーク」は通じにくいのではないか。
 もう一つ、日本語には母音が5つしかないが、英語や中国語には母音の種類が多い。したがって、「ア」も「エァ」も、カタカナで書けば、みな「ア」になってしまう。この点も「曖昧母音言語」を使用している人にとって、「カタカナ英語」が理解しにくい一つの理由だろう。(ここで「曖昧母音」と呼んだのは、あくまでも日本語にない母音をそう呼んだだけで、その母音を持っている言語族の人にとっては、ほかの母音と平等な母音に相違あるまいが。)
 余談だが、イタリアにオペラの勉強に来た人々のうち、日本人は母音がイタリア語と似ているので簡単に発声できるが、アメリカ人は「曖昧母音」になってしまい、イタリア語的発声に苦労すると聞いた記憶がある。中国人の場合も同様なのではあるまいか。
 これらの点から見れば、問題は原語のままのカタカナ表記の問題ではなく、相互の言語構造の違いを主因とするものであるような気がするし、日本人が表記や表現を工夫することと併せて、外国人側がそのことを意識した上で、「日本語」として理解に務めるという視点も必要なのではないか。

<再び外国人から見ての理解の難易>
 以上と重複するが、「これは英語ではなく日本語なのだ」と思って掛かれば、カタカナ外来語が外国人に理解されにくいということは、必ずしも正確な事実ではないような気もする。少なくとも、字で書けば「これはカタカナ外来語だ」と一目で理解できるだけに、発音の似た漢字で表記するよりは、遥かにとっつき易いような気がする。もっとも、会話の中では「カタカナ」なのか「漢字」なのかは判らないから、原語の発音に忠実な漢字表記の方が判りやすいのかも知れないが、上述のアクセントの問題と母音の種類の問題からすれば、それは日本語それ自体の問題であり、日本人がそれを「原語的」に発音すべきかどうかということは、また別の問題だと思う。なお、世界全体を見渡すと、母音の種類が多い言語はむしろ異例であり、「英語を真に国際語にするためには、ジャパニーズ・イングリッシュこそが最もそれにふさわしい」とする論者もいるようである。

<一応の結語>
 以上を要約すれば、外来語や固有名詞の使用のためにはカタカナは有力な武器だと思う。また、漢字しか持たない中国にとって、程度問題かも知れないが、それが一つの負担になっていることはまぎれもない事実だと思う。知友説で否定的に紹介されている「週刊誌のコラム」等での表現についても、「中国人は苦労している」ということに限ってみれば、必ずしも皮相的なあるいは浅薄なものだとは私は思わない。もちろん、それが過大な表現だったり、更には民族蔑視につながるような表現だったりすれば、それはそれで問題だと思うが、事柄の本質において捨て去るべき見解だとは思わない。

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 以上の文章を、当の「私の敬愛するある人物」にも送ったのだが、その人物から、自分の著書に転載して良いかというお尋ねがあった。もとより異論はない。その旨の返事をする際、以下のような「お願い」を私の方からもメールした。その要旨を転載したい。

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 お申し越しの件、もちろん異存ありません。ついては、私の方からもお願いしたいことがあります。それは、当該文章を私のブログにも載せて良いかというお尋ねです。7月9日付けブログに書きましたように、このところブログに書くタネが乏しくなっていますので、貴方のお尋ねに触発されて、私のブログにも載せようという出来心を起こした次第です。どうか御了知下さい。
 考えてみますと、「手紙」の扱いはどういう性格のものなのか判らないところもあります。私の文章ですから、公表するにつき、貴方が私の了解を求めるということは当然かも知れませんが、私が公表する場合にはどうなのでしょうか。もちろん貴方の個人名が判るような場合なら、貴方の御了解を頂くべきことは当然でしょうが、そうでない場合はどうなのでしょう。「著作権」は私にあるのでしょうから、勝手にして良いような気もしますし、「手紙は、出し手と受け手の共有財産だ」と考えれば、当然御了解を頂く必要があるのでしょう。もっとも、拒否権の強さは、出し手と受け手では違うのかも知れませんが。
 多分、今日(7月14日)付けのブログに載せると思いますので、よろしくお願い致します。

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 以下は、そのやりとりとは無関係にこのブログのために書いた思い出話である。

 手紙と言えば、御記憶の方も多いと思うが、昭和30年代頃、中国と台湾との関係につき、「吉田書簡」なるものが国会で問題になったことがあった。その内容等につき野党から細かい質問があった際、当時の椎名悦三郎外務大臣が、次のような趣旨の答弁をした。「書簡ですから、それは先方の手に渡っており、こちらには残っておりませんので、詳細は承知しておりません。」
 大事な国家間の手紙だから控えがないわけはないし、普通なら国会が混乱しても不思議のないところだろうが、椎名さんのとぼけたお人柄のせいか、一同大笑いになり、それ以上の追及はなかったという昔話を思い出した。椎名さんという方は、私の通産省の大先輩で、大先輩過ぎて面識はなかったが、「省事」をモットーとし、ものぐさで通った方だった。まだお偉くなかった頃、ある上司が評して、「椎名は、穴がいっぱい開いた大きな風呂敷みたいな男だ。大きな荷物はいくらでも包めるが、小さなものは、こぼれてしまって包めない。」と言ったというのは、その道ではかなり有名な話だ。
 そういった意味では、官僚としての私の理想像だったとも言えるが、何せ私の風呂敷は、穴が開いていたかどうかは別として、あまり大きくはなかったようだ。もっとも、「省事」には私なりに心掛けた積りである。私の経験では、官僚というもの、とかく満点主義で、どうでも良いところまで議論を重ねて、自己満足に陥っているような面があった。私は60点主義。本当に大事なことは百点満点を取る必要があるだろうが、自分の趣味に類することに時間をかけ、部下の仕事を増やし、結果として国民の利益にもならない、ということは、私が極力避けたいと思っていたことだった。もっとも、そういう気持があったというだけで、現実が「省事」になったかどうか、場合によっては「手抜き」になったのではないかということは、保証の限りではないが。