短歌における文語と口語・新かなと旧かな

短歌における文語・口語と仮名遣い(メモ)

 7月3日のこのブログに、「短歌における文語・口語と仮名遣い」についての書込みがあった。まず、Nさんから、「口語短歌で旧仮名遣い、文語短歌で新仮名遣い」といった「文法上の視点から気になる」短歌があるとのご指摘があり、次いで実作者のSさんから、そのようなことになる理由のご説明とともに、「『だから構わないだろう』ということではない。気になるのは当然だし、使用する文法と仮名表記の組み合わせに対する問題意識は常に持っているべきだ」との趣旨のコメントがあった。
 私もブログの管理人として、次のような趣旨のコメントを書いた。私の意見は、お二人よりさらにルーズなものであり、「その点は作者の美的感覚の問題であり、読み手から見て違和感がなければ良いのだと思う。『文法的に正確さを要求する読み手』からマイナスの評価を受けることは当然あり得るだろうが、それは作者のリスク評価の問題だ。私は、最近では、特殊な場合を除き、文語でも新かなを使うようにしている。これは専ら『私の感覚』というだけの理由であり、『だから構わないだろう』と言うのが、私の感覚である。」

 

 私もこれまで、実作者の一人として、仮名遣いの問題を意識しなかったわけではないが、これまでは専ら私の感覚に頼っていた。この書込みをきっかけにして、私なりに少し考えてみたのだが、「言語」については素人である私なりのとりあえずの結論は、以下のようなことである。

――――日本語には文語と口語があり、仮名遣いには新仮名遣いと旧仮名遣いがある。この両者の関係は、「無関係」である。どのような言葉を使うかということと、どのような表記にするかということは、本来関係ないものだと思う。もちろん、新仮名遣いは「新しいもの」だから、戦前の文章や詩歌が旧仮名遣いで表記されているのは当然のことである。また、現在の通常の文章が、口語かつ新仮名遣いというのも当然のことである。
 ところで、明治から戦前にかけての文章や詩歌の中には口語によるものも多いが、これらは当然のことながら、旧仮名遣いである。このことだけでも明らかなように、両者の関係は基本的には「無関係」であり、「昭和初期の口語短歌」だと考えれば、「口語+旧仮名遣い」という組合せはちっともおかしくない。ただし、「古めかしい」とか、内容によっては「ミスマッチだ」という印象を読み手に与えることは当然覚悟しておく必要があろうが。
 以上の例示で欠けているのは、「文語+新仮名遣い」という組合せであり、またこれが最も多いケースだと思うが、私は次のように考えている。より正確には、「次のように感じて、短歌を作っている場合があるようだ」と言った方が良いのかも知れない。
 私の場合、実生活ではお目に掛からないようなあまりにも古色蒼然たる文語を使うことには抵抗を感じるが、「○○をせず」、「若き娘」という程度の文語は、作歌上常用している。その理由にまで遡れば、怪しげなところもあるが、やはり短歌としての格調ということもあるだろうし、より単純な理由としては、五七五七七という語数の制約から文語を選ぶ場合もありそうである。
 その場合、仮名遣いはどうすべきか。新仮名遣いが現在世間一般に受容され、常用されているものである以上、われわれが作る文章や詩歌は、内容の如何を問わず、新仮名遣いによることがむしろ原則だと考えるべきなのではないか。それに、そもそも私が使っている「○○をせず」、「若き娘」といった程度の「文語」は、既に「口語化」している文語なのかも知れないとすら思う。そうなれば、新仮名遣いによることの弁解などは一切無用になるのかも知れない。なお, 「口語化している文語」でも活用は旧来の文語活用によるべきことは当然だろうが、「だからこれは文語なのだ」ということではなく、「口語の範囲が広がったから、従来の文語活用による口語もある」と考える方が、実情に合っているような気もする。そもそも、文法と言語は、「言語」が先行するものであり、文法は、それを後から体系化したものだと思う。そう考えれば、「文語文法により活用する単語だから、これは文語だ」という論理自体がおかしいのかも知れない。新しい日本語が生まれれば、それにつれて文法の微調整が必要になるというのが、論理的帰結だろう。もとより、だからどんな日本語でも良いのだという暴論を吐く積りはないが。
 話を戻す。現代に生き、新仮名遣いの生活を送っている私として、「虚勢を張らずに淡々と」という姿勢で短歌を作る場合には、むしろ使い慣れた新仮名遣いを使う方が、私のセンスには合っている。まだ若かった頃、旧仮名遣いの短歌も結構作っていたが、いまになって振り返ってみると、「恰好をつけて」、あるいは「身構えて」という姿勢が、今より強かったような気もする。なお、現在でもそのような欲求に駈られて、旧仮名遣いを使用している場合もあるが、それは特別な「美的感覚(?)」で意図的に旧仮名遣いにしている場合が多い。
 付随的な理由として、私より更に若い世代の場合、「○○をせず」、「若き娘」という程度の文語の知識はお持ちの方でも、旧仮名遣いには自信がないという方が多いと思う。これらの方に、「文語を使う以上は旧仮名遣いにせよ」というのは過酷な要求であり、短歌、更には詩歌というものの存在に無用の制約を与えるものともなり兼ねない。なお、逆に、「時代を付ける」といった感覚から、砕けた口語と旧仮名遣いとの「ミスマッチ」を楽しんでいるケースもあると思う。
 いずれにせよ、詩歌の表現は、自由であって良いはずである。もちろん、そのような「ミスマッチ」に違和感を感じる言語感覚の方もおられるだろうし、その方々の批判に耐える覚悟は当然必要だろうが、それはあくまでも、作者が、「自分の美的感覚」と「言語学的批判」とのどちらに重きを置くかというリスク評価の問題だと思う。