私の昭和20年8月15日

60年目の8月15日が巡って来た。当時7歳だった私も、いまや67歳である。記録に留めておきたいというほど大仰な気持があるわけではないが、私の昭和20年8月15日をメモにしてみたいと思い付いた。なるべく当時の私の気持に忠実に書いておきたいと思う。


私の8月15日


昭和20年8月15日、朝鮮の京城(現在のソウル)に父母と3人で住んでおり、私は昌慶公立国民学校の2年生だった。その年の新学期から、上級生は学童疎開で農村に移っており、われわれ下級生もいずれ疎開をと言われながら、まだ京城に残っていた。ただし、新年度から学校はほとんど休みになっていたように記憶している。もっとも、2年生の担任の先生の記憶があるところをみると、通学した時期が多少はあったのだろうか。私の父は薬剤師であり、京畿道の道庁(内地で言えば県庁)の衛生課の技師をしていた。


京城は、どういうわけか空襲には遭わなかった。警戒警報は随分出たし、空襲警報も何度かは出た。その都度、押入れの中に入ったり、庭に掘った防空壕に入ったりしたが、結果として被害は全くなかったと言って良さそうだ。どこかに行った帰りの米軍機がドラム缶を落して行き、それが専売局の屋根を壊したというのが、最大の被害だったと記憶している。食料不足等も内地ほどではなく、生活にはさほどの支障はなかった。そういった意味では、数少ない無風地帯のひとつだったのかも知れない。
広島と長崎に「新型爆弾」が落とされたこと、ソ連が参戦したことなどは、もちろん報道である程度は知っていた。私的なことで言えば、巡洋艦長良の艦長をしていた叔父が、昭和19年の夏に戦死した。


8月15日の天候は晴れだったようだが、幼い私の記憶では定かでない。その日の正午に天皇陛下の放送があるということは、いつ予告されたのかは記憶していないが、事前に知っていたことは間違いない。戦局が芳しくないことは、私にも判っていたが、おそらく、「1億国民が火の玉になって、敵に当たれ」という趣旨の放送だろうと私は思っていた。幼い私自身にそのような予想をする能力があったとは思えないから、おそらく父母の言葉を私なりに理解していたのだと思う。
 もちろん、正午の放送は聞いた。ラジオの雑音が多くて十分には聞き取れず、母にも私にも、「終戦詔勅」だということは理解できなかったように記憶している。ラジオの雑音が多かったのは、我が家のラジオの性能が悪かったのか、それとも当時の京城での放送事情に理由があったのかは知らない。
 放送が終わってしばらくして、近所の小母さんが駆け込んで来た。我が家の玄関で母に向かって「奥さん、放送聞きましたか。日本は負けたんですよ。」と叫んで、床に突っ伏して泣いた姿を覚えている。色白の大柄な人だった。母と私がそのときどうしたかは覚えていないし、その後役所から父が帰って来るまで、どんな気持でどう過ごしていたかも、記憶が定かでない部分が多い。

 
父は、「戦争に負けたら、みんな自決するんだ」と常々言っていた。我が家には日本刀が一振りあったし、青酸カリもあった。
父の言葉が本心だったのか、単なる建前にすぎなかったのか、今となっては知る由もないが、当時の私は、父の言葉をまともに受け止めていた。その日の午後、「父が帰って来たら、みんなで死ぬんだろう」という不安な気持でいたことだけは覚えている。そういった意味では、父が帰って来るのが怖かった。
もっとも、死を恐れる気持は、現在想像できるほど強いものではなかった。私が幼かったせいもあるのだろうが、割に早熟なこどもだった私が、死というものを重く受け止めていなかったとは思わない。おそらく、当時の国民一般の異常な心理状態が「死と隣り合わせ」という極限状況に置かれていたということが、その最大の理由だったのではないかという気がする。戦災に遭わなかった京城だが、「外地」という意識が、それに拍車をかけていたのかも知れない。


  父はいつもより早く、おそらく4時か4時半頃に帰って来た。私は真っ先に父に「今日死ぬの?」と聞いた。それが異常な会話だという意識は、私には全くなかった。おそらく父や母も同様だったのだと思う。父は「もうちょっと様子をみよう」と答えた。私は父のその言葉にほっとした。しかし、「生と死」という両極端から想像できるほどの大きな安堵感ではなかったように思う。いわば、とりあえず問題を先送りしたという程度の安堵感に過ぎなかったような気がする。
 その後、親子3人が何を語り、どうやって夜を過ごし、何時頃眠ったのかといったことは、全く覚えていない。それ以来、「死」の話は誰の口からも出ず、私の意識からも次第に消えて行った。


 以上が、私の8月15日である。私の家族の苦労のほとんどは、戦争中ではなく、戦後の引き揚げの際のものだったが、そのことは今日のメモの枠外にしておこう。


 二、三補足しておきたい。私は、母方の実家を継ぐために母の姉夫婦の養子になり、物心つく前から養父母と親子として暮らしていた。当時の私は、もとよりそのような事情は知らない。したがって、以上の話の中に出て来る「父母」というのは、「養父母」のことであり、戦死した「叔父」というのは、私の「実父」のことである。
 私の祖父(母姉妹の父)は、たまたま出掛けていた広島で原爆に遭って死亡したが、そのことを知ったのは、母の郷里に引き揚げてからのことである。もちろん祖母は、祖父の死亡を知らせる手紙を京城に出したそうだが、当時の外地との通信事情のせいか、われわれの手許には届いていなかった。外地に電話や電報で知らせるといった方法は、戦時下の当時としては不可能なことだったのかも知れないし、あるいは庶民としての意識の外にあるものだったのかも知れない。
 我が家に駆け込んで来た近所の小母さんが誰だったのかは、記憶が定かでない。あまり付き合いの深かった人ではなく、近所の顔見知り程度の人だったような気がする。私が成人した後になって母に聞いてみたこともあるのだが、母の記憶もはっきりしていなかった。