「仮名遣い」管見

「仮名遣い」管見


 7月25日のブログで、短歌の仮名遣いのことを書いた。また、メールのやりとりなどで、気になる仮名遣いに出くわすこともある。
法令案の立案や審査のためには仮名遣いの正確な知識も必要となるので、内閣法制局参事官その他を経験した職業柄もあって、基礎的知識は持っている積りなのだが、あらためて考えてみると、依然として釈然としない点もあり、私自身、自信のない点もある。そんなわけで、あらためて仮名遣いのことを多少考え、とりあえずの私なりの感想を整理してみた。内容は断片的かつ順不同の思い付きである。もとより専門家ではないし、まさに「管見」であることは言うまでもないが・・・。

 
 戦後、昭和21年に新仮名遣いが決められたが、その後昭和61年内閣告示第1号で「現代仮名遣い」が告示され、これが現在の仮名遣いの基本になっている。この告示の前書きで、「科学、技術、芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」と断りを入れてあるが、これに沿っていない仮名遣いを使うことは、少なくとも学校の試験等では不利だろうし、個人的な手紙等でも、「仮名遣いを知らないのか」と思われる可能性も大きいから、通常の場合はこれに従っておくことが無難だろう。

 
 私の場合、国民学校入学は昭和19年だったから、歴史的仮名遣いでの教育を受けた時期も多少はある。しかし、小学校低学年の時期だっただけに、新仮名遣いへの適応は比較的容易だったと思う。逆に、歴史的仮名遣いについては、ある程度の語感はあるものの、とても身に付いているとは言えない。特に、「お」と「を」、「い」と「ゐ」あたりの使い分けになると自信のないものが多く、短歌などでたまに旧仮名遣いを使うときは、念のため辞書を引いてみることもある。

 
 私より1回り以上年長の人の場合、旧仮名遣いに習熟していたため、新仮名遣いへの切替えがうまく行っていないケースがある。私の知人でも、依然として旧仮名遣いが混じっている人もいるし、逆に、「東京え行く」、「田中とゆう人」といった具合に、新仮名遣いを通り越して、発音通りに書く人もいる。後者の場合、新仮名遣いになった切替えの際に、「原則として発音通りに書けば良いのだ」というルールが固定観念になってしまい、「○○を」、「○○は」、「○○へ」、「言う(いう)」という例外(これは上記の告示にも明示されている)が頭に入っていないのだと思う。この種類の人々を「戦後の母親派」と名付けておこう。

 
 逆に、ぐっと若い人たちのメールなどでも、類似の表現に良く出会う。もっともこれは、「戦後の母親派」と違って新仮名遣いで育った世代だから、新仮名遣いを知らないわけではない。おそらく、ちゃんとした文章を書くときには、正しい仮名遣いをするのだろうが、メールなどについては「書き言葉」だという意識がなく、「会話の延長」としてメールを打っているために、意識してかどうかは別として、話し言葉の通りに書いてしまうということではないかと思う。この人々を「携帯ギャル派」と名付けよう。この携帯ギャル派の場合、上記の表記に加えて、「ゆこーか(行こうか)」「けーこちゃん(啓子ちゃん)」といった類の「発音記号表示」というパターンのものもあるようだ。

 
 同様にメールなどであり得るパターンだが、「ものぐさ派」というタイプもありそうである。「書く」場合と「打つ」場合の言語感覚の違いは携帯ギャル派ほどではないものの、「文章」だとの意識が比較的薄いため、ちゃんとした文章の場合と違って手軽に考えてしまい、「見直し」などをあまりしない類の人である。このケースも結構多いようだ。手紙を貰えばちゃんとした仮名遣いなのに、メールを貰うと「東京え行く」、「○○とゆう場合に」などという文章が混じってしまい、意外な印象を受ける場合もままある。
このようなメールを受け取った場合、ついでの折にでも指摘しておくのが親切だという気がしないでもないが、「細かいことを気にする意地悪爺さん」だと思われるのも嫌なので、ついついそのままにしている場合が多い。

 
 私の場合、パソコンで文章を打つことも多いが、メール等の場合もかなり慎重に読み直しはしているので、仮名遣いのミスは、まずしていない積りである。しかし、誤字、脱字、脱字の逆の重複字・・・等のケースは結構ある。パソコンに入っている段階ではいくら見直しても気付かないミスが、紙に印刷するとすぐ気付くという場合が多い。これを「紙世代派」と名付けよう。要するに、紙にならないと正常な言語感覚が戻って来ないという旧派のひとつのパターンだと思う。
 仮名遣いとは別の話だが、メールやブログの場合、思った通りの字配りにならない場合がある。1行開けて打った積りの文章が1行開かず、もう1行開けて打ち直すと今度は3行開くといったケースに時折出くわす。私の技術拙劣のせいなのかも知れないが、気に入らないままに諦めてしまう場合も多い。

 
 現代仮名遣いには比較的強いと自認している私だが、多少の迷いのあるケースもある。例えば「今晩は」という御挨拶である。この「は」は、告示で言う「助詞の『は』」なのかどうか良く判らない。「今晩は、良い月夜です」等の文章の省略型なのだとすれば、「助詞の『は』」なのだろうし、事実それが正解だと思うが、独立した熟語だと思えば「今晩わ」でも間違いとは断定できないような気もする。
 「さはさりながら」も同様である。「『さ』は『さ』であるが(それはそうだが)」という意味なのだろうから、この場合は「は」が正しいのだとは思うが、書いてみると多少の違和感がないわけでもない。主語が「さ」1文字であることから来る違和感なのだろうか。
 最も紛らわしいのは、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の使い分けである。旧仮名遣いの場合、両者はさまざまな使い分けがされており、多少の語感があるとは言え、正確を期するために辞書のお世話になる場合がままある。「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」も同様である。
 

 新仮名遣いになって、「ゐ」と「ゑ」は消え、「を」の使い方は助詞に限定されたからまず問題はないが、「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」については、依然として紛らわしい場合が多い。告示によれば、原則は「じ」と「ず」で、「ぢ」と「づ」は、①同音の連呼の場合と、②2語の連合によった場合に、例外的に用いられるとされている。①の例として、「縮む」、「続く」等が列挙されており、②の例として「鼻血」、「お小遣い」、「箱詰め」等が列挙されている。何となく判るような気もするが、「知事」は同音連呼なのになぜ「ちじ」なのか、「お小遣い」が「2語の連合」と言えるのか等、結論が先にある恣意的なものもあるような気がしないでもない。「元来『ち』や『つ』だったものが、他の語と結合して濁音になる場合に『ぢ』や『づ』に変化する」という説明の方が的確なように、私には思えるのだが、それだけでは片づかないような気もするし、「続く」の説明もつかない。
 先日ある知人とのメールのやりとりで、「近づく」なのか「近ずく」なのかが話題になったことがある。「近く」と「付く」の合成語だろうから「近づく」が正解なのだと思うが、告示の例示には入っていない。もっとも「裏付ける」は「づ」の例に示されているから、「近付く」も同様なのだとは思うが、曖昧さが残らないわけではない。

 
  以上の話とは全く違う話だが、現在の法令は、もちろん新仮名遣いによっている。しかし、戦前や戦時中の法令の生き残りもまだあり、これらは原則として、カタカナの文語体で、もちろん旧仮名遣いであり、しかも濁音なしというルールである。例えば、「○○をしてはならない」という条文は、「○○ヲスヘカラス」という表現になる。割に最近まで、民法の一部や刑法等の大法典にも結構この種のものが残っていたが、その後の改正により、随分減ったようだ。
 内閣法制局当時の記憶だが、その種の法令の改正を手掛けた人は、結構苦労もあったようだ。例えば、ある法律の1条だけの改正の場合、他の部分とのバランスもあって、文語の条文を書くのが慣例になっている。我々の世代になると、そもそも正確な文語には自信がないので、辞書のお世話にならざるを得ない。もっとも、私自身は、幸いあまりそのようなケースには出くわさずに済んだが・・・。
 「カタカナの法律が残っている」という話を部外の人に話すと、「なぜ現代文に直さないのか。怠慢ではないか。」という類の反応が返って来ることが多いが、それほど単純な話ではない。単に表現を変えるだけだとしても、新しい条文にする以上、「現在でもそれが法令として的確なものなのだ」という判断は必要になるから、単なる文法だけの問題ではない。
 また、古い法令は現在のものに比べて簡潔な表現のものが多いので、現在作るとすれば、そのままでは舌足らずだという場合もある。加えて、その条文に基づいて、多くの判例なども生まれているが、条文の表現が変われば、その判例がそのまま生きて来ると考えて良いのかどうか疑問が生じる余地がないわけではない。それだけに、なかなか手が付かなかったのだが、民法、刑法等について現代文に改正されたというのは、相当の英断だったと思う。


 以上、とりとめもない雑感である。そう言えば、なぜ「仮名遣い」なのだろう。上記告示は「仮名遣い」と表示しており、したがってこれが正しいとされる表示なのだとは思うが、わざわざ難しい字を使わなくても、「仮名」を「使う」のだから「仮名使い」で良いという気がしないでもない。