小泉独裁(朝日新聞への異議)

またしても、「声」のボツ原稿である。「しょっちゅう出して、ボツにばかりなっているんだなあ」と呆れておられる方も多いと思うし、私自身も少々呆れているところでもある。私は決して「投書魔」ではない積りなのだが、それだけ苛立ちが多い世の中の流れになっているのだとも思うし、「小言幸兵衛」の年齢になっているのかとも思う。なお、投稿してまだ1週間だから、ボツになったと断定するには早すぎるかとも思うが、元来「期間限定」的な投稿だし、しかも朝日批判に近い投稿だから、ボツになったことはまず確定的だろう。
 最近の朝日新聞の論調は、どうも権力に対する批判が弱いのではないかと思っている。ほかの新聞と比較したわけではないが、郵政をはじめとする「改革」に対しては基本的には肯定的だし、結果として小泉政権に対する批判も微温的に思える。本来、「独裁」に対する批判精神が朝日の原点だったはずなのだが、その原点を忘れて、結果として小泉独裁の後押しをいるのではないかという気がしないでもない。
 「改革」については、私も頭から否定しているわけではないが、現在の「小泉改革」は、その必要性や利害得失についての議論等がなおざりにされ、何が国民のためなのかという論点は曖昧にされ、ムードだけが先行している気がしないでもないし、ひところの破壊一辺倒の全学連とあまり違わないような気すらしている。少数勢力はそれでもアンチテーゼとしの意味があるが、「権力」がそれでは困るし、それに追随するジャーナリズムも困りものだとすら思う。良い意味での保守主義は、むしろ「革新勢力」に承継されているのではないかという気がする昨今である。前置きばかりが長くなってしまった。
 
      「素粒子」に異議あり

 8月18日夕刊の「素粒子」欄は、新しく結成された「国民新党」につき、「新味なし」、「理念なし」と痛烈に揶揄している。内容が間違いだとは言わないが、貴紙らしくもない浅薄な批判だと思わざるを得ない。
 現行選挙制度の下では、政党に属していないとさまざまな不利益を被る。常軌を逸した突然の解散と「刺客による迫害」に対応して、とりあえず政党を作るということは、政治家としての生存権を主張するためには、やむを得ない緊急措置だと思う。
 「反小泉の恨みつらみ」とも評しているが、昨今の「小泉独裁」に対する抵抗という意味では、「反小泉」ということだけでも、十分主張に値する論点だと思う。ワイマール体制の瓦解とヒットラーの台頭というかつての悪夢を思い起こさせる昨今の流れの中にあっては、なおさらのことである。
 厳しい批判は必要だが、その照準は、権力者・迫害者に対してはより厳しく、迫害を受ける者に対してはよりゆるやかにというのが、正統なジャーナリズムの基本であり、貴紙の原点でもあったはずである。