「地方」をどう考えるか

 またまた在庫整理、一昨年の年末に書いた未公開の雑文である。その後の変化を織り込んで最低限の修正はしたが、基本的な内容はそのままである。今の時点で新しく書けば、もう少し違う視点も入って来るのかも知れないが、あえてあまり手を加えずに掲載することにした。

      
地方をどう考えるか

  山間部の日だまりに小さな集落がある。戸数はせいぜい10軒かそこら・・・・旅の道すがら、そのような光景を目にすることがある。ある意味ではわびしいが、他方、日本という国の原点を見たようなほのぼのとした気持も味わうところである。
  しかし、考え方によっては、次のように見ることもできるだろう。・・・・このような小さな不便な集落でも、道路は当然必要だし、郵便の配達も必要だろう。おそらく、集落の住民はそれほどの税金も払っていないだろうし、他方、この集落の人々のために、国や自治体が負担している費用は相当なものだろう。効率の悪いことだ。・・・・
 
  どちらが正しく、どちらが間違っているということではないのだろうが、私の心情としては、このような集落は、残せるものなら残しておきたいという気がする。もちろん、住民が自分たちの意志で集落を離れることはやむを得ないことなのだろうし、現に挙家離村という言葉すらあるくらいだが、国の施策がそれを促進する方向に向かうことは問題だと思う。
  現在の飴と笞による市町村の合併促進策をはじめとする諸施策は、どうもこのような集落を切り捨てる方向に向かっているような気がするのだが、それならそれとして、その点に踏み込んだ議論がもっとなされるるべきではないだろうか。特に、人口減少社会に入りつつある現在、将来のこの国の国土をどう考えるべきかということは、今後の各種課題の原点になるべきものだと思う。

  私の郷里は、瀬戸内海の周防大島という島である。島には4町があり、私はその東端の東和町という町の東京町人会の会長を仰せつかっているが、町の人口は、ひところの20%台にまで減少しているし、高齢者の比率は50%を超えるという日本一の高齢化の町である。その4町、実は昨年秋に合併し、島全体が一つの町に統合された。そのこと自体に異論を唱える積りはないし、そのことによるメリットもあるとは思うが、それにしても、自分の郷里がだんだん影が薄くなって行くような気がしないでもない。
 

  考えてみれば、戦後から今日までの間、何とかやって来られたものが、経済が大幅に拡大して力のついた現在になってやって行けなくなるということは、どうも腑に落ちないところではある。町村合併の話に限らない。郵政民営化にせよ、いわゆる規制緩和にせよ、構造改革にせよ、改めるべきものを改めるのは当然として、どうも改革の名のもとに、これまで温存して来た美風まで捨て去ろうとしているような気がしてならない。憲法にしても同様であるが、そこまで話を広げることは、この際遠慮しておこう。
 

  話はちょっとそれるが、最近企業業績はかなり向上しているという。それ自体は結構なことだが、本当に喜ぶべき方向に向かっているのかどうか疑問も残る。企業業績が上がったとは言っても、それはリストラによる雇用切捨てによる面も大きい。幸いにして残った社員も、過重な労働にあえいでいる場合もあると聞く。
  もう一つ、長年にわたる超低金利により、企業の金融コストが減少したということも業績向上の一因だろうが、このことはとりも直さず、本来個人が得るべき金利収入がなくなり、資金の借り手である企業や国にそのメリットが移転しているということである。一言で言えば、個人の蓄えを収奪して、老後の安定収入も放棄させた結果、企業や国が潤っていることにほかならない。そういった意味で、現在の企業業績の向上は、極めていびつなものだと思う。
 


  話を戻す。民間企業が効率を旨とすることは当然だろうし、この点は国や自治体といった公的部門も基本的には同じなのかも知れないが、国や自治体は、住民の福祉向上と国土の保全、更には地域雇用の確保という使命も負っている。その国や自治体が、効率化の名の下にこれまでやれていたことまで切り捨てようとしていることには、十分な理由付けが必要だろう。最初の話に戻すと、そのような山間部の集落をどう考えるかということが議論の原点になるべきだと思うし、その原点を離れた単なる効率論や財政論で議論を進めることは、余りにも偏った発想のような気がしてならない。
 町村合併の話に限定して考えても、一部事務組合、更には全部事務組合といった制度もすでに存在しており、合併強行ではなく、このような制度の活用ももっと考えて良いことだと思うが、最近の流れを見ていると、そのような議論が余りされていないような気がする。
 

  最近の政治の中枢を担っている人々は、概して都会出身者が多いような気がする。都会中心、更には東京中心の効率一辺倒の発想が強過ぎるような気がする。都会人にも、ふるさとを持ち、そのふるさとの恵みを受けて育った人も多い。「日本のふるさとを守る、そのためには、不効率な部分を国や自治体が背負い込む」といった発想がもっと採られても良いし、また、過去に比べれば、その程度のゆとりは、わが国にあるはずだと思う。もっと貧しかった時期にすらできたことがなぜ現在できないのかというのが、基本的疑問である。
  経済全体についても同様である。なぜ企業の合併がここまで進められなければならないのか、グローバルスタンダードという言葉を聞いて久しいが、現在のグローバルスタンダードは、実はアメリカンスタンダードに過ぎないということも良く耳にする。かって、無批判に日本型経営がもてはやされた時期があったが、現在は日本型経営の美点まで余りにも安易に切り捨てようとしているのではないか。


  上記の主張は、結論ではなく問題提起に過ぎないが、いずれの問題にせよ、どうも原点に返った基本論を軽視して、ときの為政者の思い付きに近い感じでものごとが進み過ぎているという気がしてならない。