小泉さんに脱帽(スペース・マガジン)

 またまたスペース・マガジンからの転載である。実は、同誌の9月号はまだ発売早々で、今日その原稿を転載するのはマナー違反なのかも知れないが、総選挙の日程も迫っており遅くなっては意味がないので、やむにやまれぬ心境で転載するものである。またしても同工異曲の小泉批判であり、私自身も少々うんざりしているところではあるが、「危険な独裁者小泉」、「問題すり替えの達人小泉」の跳梁跋扈をこれ以上許すわけには行かないという気持で、所詮はゴマメの歯軋りであることや皆様に辟易されることは承知の上で、転載するものである。
 イソップ物語にこんな話がある。
―――沼に住む蛙たちが、王様が欲しいと思い、神様にお願いした。神様は、木の棒を王様として彼らに与えた。文字通り木偶(でく)の棒であり、蛙たちは満足できず、更に神様にお願いした。神様は、今度は、「鷺」(だったと思うが、私の記憶も少々怪しい。)を王様として与えた。恰好良い王様に蛙たちは大喜び。しかし、結局蛙たちは次々に鷺に食われてしまう。―――
  そんな話だった。この鷺の姿と小泉さんとが、私の頭の中で結びついてならない。彼は、バランス感覚や節度を欠き、恰好良さと、舌先三寸の弁舌(?)と、機を見るに敏な動物的感覚でのしあがって来た人物だと思う。更に言えば、私の目には「恰好良い」とも見えない。風貌からして、まさに「残忍酷薄な殺し屋」のイメージにピッタリの人物だとしか思えないし、しかもご本人が、「おれは狂人だ・非情だ」と公言して憚らない人物である。デビュー当時のヒットラーの方が、まだしも猫をかぶっていたような気すらする。
  その小泉人気はまだ健在だと聞くし、世論調査では自民党圧勝との予測もある。選挙民が何を考え、何を評価しているのか、私には全く判らない。小泉自民党に対する投票が少しでも減るように、ほとんど意味のない繰言を繰り返すのみである。少々ヒステリックな文章になっていることを自覚していないわけではないが、それほどの危機感を持っていると言うことだけは、御理解頂きたいと思う。勝手なお願いだが、どうかこのことで私を嫌わないで頂きたい。
  以下の原稿は、雑誌だということを念頭に置いて書いたので、すこしソフト過ぎるかなという気がしないでもないが、それはそれ、このどぎつい前文でそれを補足した積りである。



[愚想管見] 小泉さんに脱帽                   西中眞二郎

  郵政法案否決、衆議院解散という運びになった。予測の範囲内とは言え、腑に落ちないことばかりだ。郵政法案の是非は別として、なぜ可決した衆議院を解散するのか。仮に選挙で小泉さんが勝ちを収めたとしても、参議院の議員構成が変わるわけではないから、選挙後の参議院で法案が可決される公算は小さい。これまでの解散にも大義名分のないものは随分あったが、少なくとも政権党としての「党利党略」はあった。今回の場合は、政治の空白をものともせず、党利党略すら見当たらず、小泉総理の面子と行き掛かりによる解散としか言いようがない。
  「言うことを聞かないと家に火を点けると言って、お父さんがガソリンを撒いている」との加藤紘一議員の譬えは卓抜なものだと思うが、「聞き分けのないこどもたち」への脅しまでは策略として判るとして、本当に火を点けてしまったとは不条理の世界だ。ここまで来れば、「自民党をぶっ壊す」との小泉さんの「公約」が本当に実現しそうである。「自爆テロ解散」、「ぶっ壊し解散」、「殿ご乱心解散」とでも名付けるしかあるまい。
  一国の総理としての小泉さんの適格性には、私は以前から疑問を呈していたのだが、小泉政権成立直後、あるパーティーの席で自民党の有力議員のお一人に小泉批判を申し上げたところ、その方から「自民党の心ある議員で本当に小泉さんを支持している人は一人もいませんよ。選挙のための看板に使っているだけです。」との返事が返って来て驚いた記憶がある。看板の積りの「変人」に振り回されて苦労の挙げ句に政権の座から転落するとすれば、自民党も愚かな選択をしたものであり、ましてや総理の「信念」に振り回されっ放しの国民は救いようがない。
  小泉さんの特質はいろいろあるだろうが、個々の政策論は別として私なりに二点挙げれば、①郵政、靖国、今回の解散、反対派の非公認等々、国益や党益を離れて、自分自身の「信念」を頑迷に貫き通す姿勢 ②総理として、あるいは総裁として、自分の持っている「権限」をフルに活用する権力主義――だと思う。特に後者については、いかに制度的に権限があるにせよ、その行使には自ずから節度を持つのが従来の「日本的感覚」だったと思うが、それをフルに活用し、しかも「おれは総理だ」と公言して憚らないというのは、いかにも小泉さんらしい。
  このところ感じるのは、「小泉さんは、中世の宗教家だ」ということである。火あぶりにされることも辞さなかった中世の宗教家たち、遥かな海の彼方まで殉教を覚悟で渡って来た宣教師たち、彼らにとっては、「神」すなわち「自己の信念」が最大のよりどころであり、そのためには死をはじめとするいかなる苦難にもひるまない。また、そのためには、利用できる手段はすべて利用し、それに躊躇することはむしろ罪悪ですらある。そして権力を握った暁には、他宗教や異端派への不寛容と郵政という名の「踏み絵」、そういった意味で、小泉さんの昨今の姿と「信念に燃えた宗教家」の姿が、二重写しになって来る。小泉さんの中世宗教家としての資質には全くもって脱帽するしかないが、「信念に燃えた中世宗教家」が現代の一国のリーダーとしての適格性につながるのかどうかは、現代に生きるわれわれ個々人が判断するしかあるまい。

<スペース・マガジン9月号所載>