悲しき十二歳(小泉批判、スペースマガジンより)

  暫く題詠マラソン関係が続いたので、そろそろ別の話題にしたい。例によって、スペース・マガジン(日立市で発行されているミニコミ誌で、私がコラムを持たせて頂いている。)からの転載である。ちょっと激し過ぎるかなと少々気になってもいたのだが、同誌の巻頭言を見たらもっと激しい論調だったので、ちょっぴり安心(?)した。
 『「題詠マラソン」がやっと終わったと思ったら、今度はまたしても「小泉批判」か』と、皆様に辟易されそうだが、何卒御容赦下さい。
  
  なお、こんなものを載せたからと言って、題詠マラソンから足を洗ったわけではありませんから、その関係のコメントなどは、御遠慮なくブログの関係部分に御投稿下さい。


[愚想管見] 悲しき十二歳                  西中眞二郎
  
  早いもので、このコラムを書かせて頂いて1年近くになる。肩の凝らない読み物をと思っていたのだが、最近の政治や社会の流れを見ていると、そうも言っていられないという気がして来る。それでも、社会の公器を利用して私的で露骨な政治批判をするということは、多少は自制して来た積りなのだが、いよいよ私のブレーキも利きが悪くなって来た。
  
  先日の国会答弁で靖国参拝を巡り、「私にも思想の自由がある」との総理答弁があったようだ。もちろん、その限りにおいてはその通りだ。しかし、その「思想」を言動に移すのは、全く別の問題だ。名もない私人の場合でも、その言動によっては責任を問われることもある。ましてや、小泉さんは一国の総理であり、その言動の影響は国民の利害に直接降り掛かって来る。それを私的な「思想の自由」にすり替えて恥じるところのない小泉さんは、総理としての適格性を全く欠いた人物だと思わざるを得ない。
  総理の責任の重さを自覚せず、中学の生徒会長以下の軽さで、私情によって国政を左右されたのでは、われわれ国民はたまったものではない。帝王学を全く心得ないままに総理になった小泉さんの底の浅さ、更に言えば、バランス感覚と責任感の欠如、憲法に対する理解と論理能力の低さ・・・考えれば考えるほどこのような総理を持ったことが悲しくなる。

  
  靖国については、いろいろな見解があるだろう。私は基本的には、靖国神社に否定的な意見を持っているが、この際そのことには目をつぶって、一点に絞ろう。総理の靖国参拝に中国や韓国の反発が強いことは、周知の事実である。また、広く世界全般を見渡しても、靖国参拝に当惑している向きが多いように見られる。仮に一部の人が主張するように、これらの反発が「内政干渉」だとしても、靖国参拝につきこれら諸国が当惑し、反発していることは、厳然たる事実である。それらの反発を承知の上で参拝を強行する総理の判断の物差しが、私にはさっぱり理解できない。「信念」という名の幼稚な私情によって隣人の顔をなぜ逆撫でする必要があるのか、という至って単純な話である。
  日中、日韓の友好関係を希求し、そのために努力している内外の人々の苦労の積重ねを、総理の軽率な私情がぶち壊している。小泉さんは、そのことに思いを致したことがあるのだろうか。このような総理を持ったことは悲しいことだ。そして、その総理に正面から苦言を呈する人がいなくなった自民党も悲しい存在だし、靖国参拝を批判しつつも与党の座にしがみついている公明党も悲しい存在だ。玩具屋の店先で、「あれ買って」と言って幼児が泣き叫んでいる。幼児の連れは、オロオロしながら、その幼児の意のままに玩具を買い与えている。言うまでもなく、「幼児」は小泉さんであり、「連れ」は、自民党であり、公明党であり、場合によってはわれわれ国民である。


  戦後間もないころ、占領軍の最高司令官だったマッカーサー元帥が、「日本人の精神年齢は十二歳だ」と発言して、反発を買ったことがあった。小泉さんの言動、そして先般の選挙結果や靖国参拝に対する世論を見ていると、決して口にしたくない言葉ではあるが、「やっぱり十二歳だったのか」と思いたくもなる。悲しい話である。


<スペース・マガジン11月号所載>