私の引揚体験

                
 
「私の8月15日」については、8月15日付けのブログに書いた。今日は、その後の私の戦後体験を、京城(注1)からの引揚体験を中心に書いてみたい。なるべく当時の感覚のままで書きたいと思うので、現在から見た感想や事実などは、原則として、注の形で補足することにしたい。なお、現在の感覚で言えば適当でない用語が出て来るかも知れないが、あえて当時の感覚のままで書いて行こうかと思っている。
 大分前から、一度記録しておきたいという気持はありつつ延び延びになっていたのだが、先日、知人が出演している関係で「白い島」という演劇を見た。敗戦直前の中国・海南島からの帰国を主題とした作品である。それを見ているうちに、私の引揚体験を整理しておきたいという気持が、あらためて募って来た。私にとっては大事な記憶だが、纏めて書くのははじめてのことであり、家内やこどもたちにとっても知らない話が多いと思う。

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8月15日以降、我が家の生活に大きな変化はなかった。当時国民学校(現在の小学校)2年生だった私の学校は、20年の春以来休校が続いていた。
日本人は、当然のことながら日本に引き揚げるということが決まっていたのだが、父(注2)が勤めていた役所の関係で言うと、それまで当然のことながら日本の行政体系の中に組み込まれていた朝鮮の行政は、米軍の軍政の中に組み込まれることになった。しかし、いきなり人間まで全部入れ換えてしまうことは、事実上不可能である。したがって、父は、それまで通り京畿道警察部衛生課(注3)の技師として、道庁に通っていた。軍政への移行がいつからだったのかは記憶がはっきりしないが、アメリカの将校か軍属かが父の上司の課長で着任したという話を父から聞いた記憶がある。多分8月の末か9月のはじめのことだったと思う。
私が京城を去ったのは、9月25日だった。父は仕事の関係でしばらく残らなければならないということになり、私は母と二人で、引き揚げることになった。そのことが決まったのがいつのことだったのか、どのような相談があり、どのような所要手続があったのかといったあたりは記憶にない。いずれにせよ、終戦から40日くらい後の話だから、そう時間を掛けた調整があったというはずはない。どこからどのような切符を入手したのかという記憶もないが、たしか日付の入った「引揚許可書」のようなものを見たような微かな記憶があるので、それが同時に乗車券を兼ねていたのかも知れない。
それまでの40日間、私の生活はほとんど変わらなかった。学校は引き続き休校である。買い物か何かで電車で繁華街に出掛けた母が、「日本人は降りろ」と言われて電車から下ろされ、歩いて帰って来たと聞いた微かな記憶がある。近くの日本人の家に強盗が入って、家族が殺されたという話もあったが、私どもがまだ京城にいた頃の話だったか、それとも私どもが発った後の話として、後に父から聞いた話だったかは記憶が曖昧である。
そう言えば、8月の末か9月のはじめだったと思うが、以前父の部下だった人が、満州(現在の中国・東北)から着のみ着のままで逃げて、我が家に転がり込んで来た記憶がある。アメリカの軍政下に置かれた南鮮に住んでいた人間は、苦労の有無は別として一応日本に引き揚げるシステムができていたのだが、ソ連に占領された満州や北鮮に住んでいた人々は、そのようなシステムはなく、生命の危険すら感じながら、文字通り「逃げて来た」人ばかりだった。(注4)
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私の住んでいた家は、かなり立派な家だったが借家だった。したがって、持ち家(注5)の人に比べれば、財産的損失は小さかったとも言える。引揚のときに持ち帰れる荷物は、手に持てる荷物だけである。まだ小さい私は、ランドセルのほかには、小さい荷物1個くらいだったと思う。母もそう大きな荷物は持っていなかった。母はモンペ姿であり、私もあるいはそうだったのではないかと思う。
貯金通帳等は無価値になっていたように思うし、現金の持参限度も決まっていたようだ。当時の黒いページのアルバムから写真をはがし、その裏に現金を1枚ずつ張り付けて隠し、限度を超えた現金を多少持ち帰った記憶がある。実際には、荷物の検査等はなかったから、もっと堂々と持ち帰っても良かったようだが、もともとそれほどの現金はなかったのかも知れない。
家は借家だとは言え、家財道具等はいろいろある。おそらく正規のルートではなかったと思うが、「内地に荷物を運ぶ」ことを請け負う人たちがおり、我が家もかなりの家財をその人たちに託したようだ。もちろん相当の代価を払っての話である。しかし、それらの荷物は、引揚先には一切着かなかった。台風の関係で船が沈んだという話を後に聞いた記憶もあるが、果たして本当にそうだったのか、それとも、はじめから送る気持などない詐欺まがいの商法だったのか、それは判らないままであり、追及しようにも日本と朝鮮とに別れてしまった後になって追及のしようもなかったのではないかと思う。
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9月25日の朝、母と私は京城駅を出発した。通常の3等客車だったが、通路からトイレまですし詰めである。幸い母と私は座席に着くことはできた。何か特別の制度があったのか、早いもの勝ちだったのか、それとも女・こども優先というルールがあったのか、その辺になると幼い私の記憶はない。
同じ車両の、かなり離れた席に、国民学校同級生で、家も同じ隣組だった井上卓士君が乗っていた。多分偶然だったのだと思う。私が「タクシー」と呼ぶと、彼が「オーイ」と手を挙げる。そんなことを何度か繰り返した。(注6)
列車は超満員で、トイレの中まで人でいっぱいである。座席の横に置いていたはずの私の学帽が誰かの排泄物で汚されていたという記憶もある。引揚のための特別列車だから、運行時間もはっきりとはせず、いつ釜山に着くのかも判らないし、途中どの駅に止まるのかも判らない。時として、駅でもないところや、名もない小駅に止まったりする。乗客は、男も女も窓から飛び下り、線路脇で用を足す。恥ずかしいなどと言える環境にはなく、若い女性も白い肌を見せて用を足していたような記憶がある。幸い、母も私もその点は難を免れたように思うが、車内のトイレに行けたのか、たまたまそこまで切羽詰まった状況にならなかったのか、その点の記憶は全くない。
終点の釜山に着いたのが何時頃だったかは、記憶にない。通常の速度なら、当時でも夕方までには着けたはずだが、途中で暗くなった記憶があるから、多分夜遅くか、翌朝か、いずれにせよ長い時間が掛かったことは間違いない。途中の山の中で、点々と灯りが見える。「山賊が待ち伏せしているのではないか」と口にする人があり、怖かった記憶もあるが、その点は格別のことはなかった。
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釜山に着き、引揚者の収容所に連れて行かれた。乗り物に乗った記憶はないから、多分釜山駅の近くだったのだろう。場所は国民学校の講堂で、大きな富士山の絵が描かれていたのを覚えている。その講堂にみんな坐り込んだり横になったりして、乗船を待った。
そこにいた期間がどのくらいだったのかは正確には覚えていないが、釜山に住んでいた母の知人の家にお邪魔して、風呂に入らせて貰った記憶があるところをみると、2泊かそこらはしたのだと思う。「知人がいるのなら、そこに泊めて貰えば良い」という気がしないでもないが、多分、勝手な行動をして集団から離れると、船に乗り損なうおそれがあるということで、せいぜい数時間の自由しかなかったのだと思う。
収容所に入って何日目だったか、アメリカ兵が来て、船まで案内するという。一同ぞろぞろとその後に付いて港に行った。大きな船かと思っていたら、比較的小さな貨客兼用の機帆船である。多分100トンか200トンくらいのものではなかっただろうか。引揚者のリーダー格の人が、「こんな小さな船では不安だ。代えてくれ。」と交渉したらしい。リーダーを決めた、あるいは決まっていたということはないはずなので、おそらく、団体行動をとっているうちに、自然に世話役的な人が生まれて来たのではないかと思う。この辺は、私の記憶もかなり怪しく、後に母から聞いた話と混同しているのかも知れない。
それから数時間経って、また米兵が案内に来た。さっきとは違う道を通って港に行く。ところが、行ってみたら船は同じ船である。おそらく、われわれの拒絶反応を防ぐために、別の船に案内するふりをして遠回りして連れて行ったらしい。リーダーもさすがにもう拒絶する元気もなかったようで、結局その船に乗ることになった。
船倉の板張りの部屋である。あるいは、畳が敷いてあったのかも知れない。一同、寝そべるか坐り込むかするしかない。すし詰めだったという記憶もないが、さりとてそれほどゆとりがあったとも思えない。
出航して何時間経っただろうか。船の揺れが次第に激しくなって来た。私も含め、皆船酔いになり、吐く人続出である。はじめのうちは、外海に出たせいかと思っていたが、どうも台風が来ていたようだ。船の揺れは一段と激しくなる。幼かった私でも、船が沈むのではないかという恐怖に襲われた。大人の恐怖は、もっと大きかったと思う。後で聞いた話だが、船長も一時は沈没の覚悟を決めたということだ。そのとき、われわれ乗客同士や船員との間にどのような対話があったのかは、全く記憶にない。
もちろん、救命具や救命ボートなどは備え付けていないから、沈んでしまえばそれまでだ。あのとき私の人生が終わっていても何の不思議もない。いや、その可能性の方が大きかったのだと思う。そういう意味で言えば、私の人生の大半は、「余生」だという気すらしないでもない。
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船は、やっとのことで対馬の北端の比田勝港(注7)に入港した。漂着と言っても良いだろう。嵐の収まるのを待つのと船の修理とで、何泊かした。その間、民家に泊めて貰ったような気がするが、記憶ははっきりしていない。
嵐も収まり、比田勝を出港して下関に向かう。今度は海も平穏で、比田勝までの荒れ模様が信じられないくらいだった。船の中で一夜を明かしたような気がする。
下関に着いて、汽車に乗った。私の郷里というのは母の郷里(注8)であり、山口県の東端にある周防大島である。郷里はそのまた更に東端にある伊保田(注9)という集落であり、母の実家には祖父と祖母、それに広島県の呉から疎開した母の妹とその子二人が住んでいた(注10)。大きな島だから、島に渡ってからも8里くらいの道のりがある。本州の柳井か大畠から、島の港を順に回って、最後に東端の伊保田に着く船便があるはずである。したがって、汽車での目的地は、山陽本線の柳井か大畠だったはずだ。
汽車の混雑はさほどではなかったような気がするが、記憶は曖昧である。山陽線の旅の記憶は、下関駅のホールの雑踏と、途中の駅で見た大きな工場の焼け跡程度であり、そのような断片的な映像しか記憶に残っていない。工場の焼け跡というのは、多分徳山の燃料廠の焼け跡だったのではないかと思うが、赤錆びた鉄管や鉄骨、機械などがごろごろ転がっていたような記憶がある。本土での旅は格別の問題もなく、無事汽車を降りた。
ところが、過ぎたばかりの台風の影響か、私の郷里まで行く船が欠航している。とりあえず、島で本土に一番近い小松港まで連絡船で渡った。その後数年を経て、小松から国鉄バスも走るようになり、更に大畠から小松の近くまで橋も掛かったが、当時は船が唯一の交通手段である。
母と私の二人で、8里の道を荷物を持って、伊保田まで歩くのは至難の技である。今と違って、自動車があるわけでもない。船は出ない。途方に暮れて小松の町のとある民家の軒先にしゃがみ込んでいたら、その家の老人夫妻が同情してくれ、一晩泊めてくれた。母が代金を支払ったのかどうか、そのあたりの記憶はない。
翌日か翌々日か、動きはじめた船に乗って、郷里に辿り着いた。かなり前から郵便などでの連絡は不可能だったので、予告なしの帰郷である。港に近い我が家の玄関を開け、「ただいま」と言って母が入って行った。「あら、お姉さん」と母の妹が大きな声を出した記憶と、私より4歳下の従弟が変なパジャマのような服を着て、胡散臭げな目付きで、立ったまま大黒柱にもたれて私どもを眺めていた記憶は、比較的鮮明である。
祖母もいる。いるはずの祖父と2歳上の従兄はいない。暫くして「お父さんは?」と母が祖母に聞いた。「やっぱり手紙着かなかったのか。おじいちゃまは、広島の原爆で死んだんよ。広島に用事ができて、ちょうどピカのとき広島に行っててねえ。」というのが祖母の返事であり、母も私も言葉を失った。
それにしても、従兄もいないのはおかしい。「あるいは、祖父と一緒に広島に行っていて、一緒に死んだのではないか」とも思った。何のことはない、彼は学校に行っていたのだ。京城の学校はその春から休校になっていたので、こどもたちは学校に行くものだという通常の感覚を、私はすっかり失っていたのだ。間もなく従兄が学校から帰って来た。「眞ちゃんたちよ」と母の妹が言い、従兄が「いらっしゃいませ」と挨拶した。「いらっしゃいではなく、お帰んなさいでしょ」とその母親がたしなめた。従兄が生きていたので、私はほっとした。
それが10月5日のことだ。京城を発ったのが9月25日だから、足掛け11日になる。通常の旅なら、当時の交通事情でも2日もあれば帰れる距離だ。
後になって、日を追って整理してみると、以下のようなことだったのかと思う。最初と最後は確かだが、中間は1泊か2泊のズレはあるかも知れない。個別の記憶と違いのある部分もあるが、全体の日数と合わせるとこうでも考えないと計算が合わないし、母も既に鬼籍に入って久しいので、いまさら確認のしようもない。

9月25日 京城発、車内で1泊
   26日 釜山着、釜山の収容所に4泊
   30日 釜山発、比田勝着、比田勝に3泊
10月3日 比田勝発、船内で1泊
    4日 下関着、下関発、小松港着、小松港で1泊
    5日 小松港発、伊保田

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 11月のはじめ、玄関の扉が開いた音がしたので出てみたら、国民服(注11)を着た父が、大きなリュックを背負って立っていた。それまで京城に残して来た父のことが気になっていたことは当然だが、連絡のとりようもないので、気を揉むだけの日々だった。もっとも、父の仕事の関係で帰国はもう少し遅くなると思っていたので、それほどジリジリした記憶はない。
 父の話によれば、父の帰国は至って順調だったとのことだ。釜山からの引揚船も大きな旧軍艦で、何の不安もなかったという。たしか、前日に京城を発って、丸二日で帰郷できたようだ。考えてみれば、私どもが帰ったのが引揚のピークで、ピークから外れた父の引揚はゆとりがあったということだったのかも知れない。
 父を残して帰った後、私はこんな歌を作った。歌詞だけでなく、鼻歌ではあるが一応のメロディーも付けている。
    1 釜山の港を出る時に
      瞼に浮かんだ父の顔
      さらばよさらば半島(注12)よ
      再び浮かんだ父の顔
    2 汽車が京城出る時に
      手を振っていたおとうちゃま
      ぼくらは無事に帰ったが
      早く帰っておとうちゃま

この文を書きはじめたときは、この歌の存在をすっかり忘れていたのだが、最後まで来て、突然何年ぶりか何十年ぶりかに、鮮明に思い出した。京城を発つとき父が見送りに来たという記憶はすっかり失っていたのだが、当時作ったこの歌によれば、間違いなく京城駅まで見送りに来てくれていたようだ。
 ついでに、全く同じ時期に作った短歌を書いておこう。その後60年に及ぶ私の短歌歴の起点とも言うべきものだ。
     住み馴れしソウルを遠く後にして生まれ故郷に帰る淋しさ

(注1)けいじょう。現在のソウル。当時朝鮮総督府が置かれ、朝鮮の政治・経済・学術の中心都市だった。人口は100万人弱くらいだったのではないか。
(注2)私は、母方の実家を継ぐため、生後1年くらいで実母の姉夫婦の養子になり、その夫婦のこどもとして育てられた。そのことを知ったのは後のことであり、この頃は、当然養父母を実の父母だと思っていた。したがって、この文で「父母」と呼ぶのは「養父母」のことである。なお、ついでに言えば、私の実父は海軍軍人で、巡洋艦「長良」の艦長として昭和19年の夏に戦死し、その後2階級特進で中将になった。養父は薬剤師で、朝鮮に渡り、京畿道庁に勤めていた。
(注3)道庁というのは、本土の県庁とほぼ同じ機関である。現在はたいていの県庁は衛生部(あるいは生活衛生部)といった組織を持っているが、戦後の改革までは、内地、外地を問わず、原則として衛生行政は警察部に属していた。したがって、父の職務内容は、現在に引き直すと「衛生部薬事課長」といったところに相当するのかと思う。
(注4)その後、組織的な引揚も行われるようになったのかも知れないが、正確なことは知らない。
(注5)持ち家を放棄して引き揚げた人の場合、その家がどうなったのか、私は知らない。
「売る」と言っても、足許を見られて買い叩かれるのは当然だろうし、あるいは朝鮮人の知人に安く譲ったのだろうか。空き家のままで放置して引き揚げ、早いもの勝ちで「掠奪」されたケースもあったのではないかと思う。
(注6)「タクシー」というのは、「たくし(正しくは「たくお」)」という彼の名前から来たあだ名である。引揚後、手紙の交換は続いており、私が大学生の頃、東京で彼の家に遊びに行ったことがある。ところがどうも話が噛み合わない。私の方は、幼いなりに生の記憶があるのだが、彼の方は直接の記憶はなく、その後の手紙の往復や御両親からの話を聞いた上での、いわば補われた記憶しか残っていなかったようだ。そんなわけで、私としては落胆もあり、その後いつからか互いに音信も途絶えてしまった。
(注7)ひだかつ。当時はたしか豊崎村に属していたと思う。その後豊崎町を経て、周辺との合併により上対馬町となったが、最近対馬全体が合併して対馬市になった。
(注8)注2で書いたように、養母と実母は姉妹であり、大島はその二人の郷里である。二人姉妹だったので姉が家を継ぎ、婿養子を迎えた。それが私の養父である。
(注9)当時は、山口県大島郡油田村に属していた。その後周辺の村と合併して東和町となり、最近島全体が合併して周防大島町となった。周防大島は、瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぐ大きさの島であり、当時は、3町9村あった。人口も7万人くらいいたが、その後の過疎化の進展により、現在は2万人余というレベルに激減している。蜜柑が特産品で、半農半漁の景色の良い島である。本土から橋も掛かり、交通も随分便利になった。
(注10)既に書いたように、「母の妹」というのは私の実母であり、その子は私の兄と弟だが、当時の私は、叔母と従兄弟だと聞かされていた。
(注11)戦争末期、国民服というものができた。軍服に似たカーキ色の洋服で、強制されたわけではないのかも知れないが、都会に住む大半の成人男子は、普段着は別として、通常この服を着用していた。
(注12)当時、「朝鮮」については「半島」という呼称もあった。京城の最も由緒正しいホテルは「朝鮮ホテル」、新しい大きなホテルは「半島ホテル」という名前だった。