なぜ「反公務員」なのか

最近書いた未公開の雑文である。「硬派」続きで、お読みの方は辟易されるのかも知れないが、ご容赦頂きたい。


「反・公務員」考

                         17・11・22

  昨今、「公務員」に対する風当りが強いようだ。特に、「官僚」という言葉でとらえるとなおさらだ。基本的には、昨日今日にはじまった話ではなく、以前から国民一般の間にあった感覚だとは思うが、小泉政権による「改革」以来、その風潮が一層高まっているような気がする。
  今回の選挙で、小泉総理が「郵便局員が国家公務員である必要があるのか」と絶叫して、結構大衆に受けたようだが、おかしな話だ。郵政民営化のポイントは、「郵便等につき国が責任を持つのか、民間に委ねて良いのか」という点であり、郵便局の職員が公務員であろうと会社員であろうと、彼等が自分の給料を、基本的には自分で稼がなければならないという点では同じことである。官庁組織には、おのずから一定のルールや縛りはあるが、郵便局のような現業組織の場合、柔軟に対応することは可能であり、まして公社となった郵便局については、その制約を小さくすることは十分可能である。それを、「公務員の是非」に置き換えて問題のすり替えをするのは、小泉さんの常套手段であり、「公務員」に対する世間一般の反発を見越しての巧妙な策略だったということだろう。
  ある県知事選で、官僚OBの有力候補に対し、民間企業出身の候補が「官から官」で良いのかという問題を投げかけて善戦したということがあったが、これも「官」に対する反発の表れと見ることができるだろう。
  題詠マラソンというネット短歌の会があり、私も今年はじめて参加した。100の題が参加者の公募によって決まるというシステムになっているのだが、その中に「官僚」という題があった。実は、この題は私が出題した題が採用になったものなのだが、「難題」を出すという意地悪根性が半分、どんな傾向の歌が集まるかという「官僚に対する世間の評価」を知りたいという好奇心が半分といったところから出した題だった。私の予想通り、大半の応募作は、「官僚」に対する反感、あるいはそこまで行かないにせよマイナスの評価をしている作品だったが、そのまた大半は、身近にいる「官僚」ではなく、世間の常識に基づく「官僚像」による抽象的な作品だったように思う。

 
 いきなり話が横道に逸れたのかも知れない。私は、長年通産省に勤務した「官僚OB」である。したがって、「官僚」の良い面と悪い面を、世間一般の人よりは実感として知っているということは言えるだろう。そういった意味で言えば、昨今の官僚批判は、当っている面もあるが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という根拠のない感覚論も多いような気がする。もちろん、「官僚OB」であるだけに、官僚に対する点数が甘くなる点もあるかもしれないし、私が通産省を離れてから20年近く経過しているので、時代遅れの認識の点があるかもしれないが、それはそれとして、私なりの考えを、順不同ではあるが整理してみたい。

 
 「公務員」という言葉と「官僚」という言葉は、実質的には同じもののはずだが、現実にはかなり違うイメージを持たれているような気がする。
 まず「公務員」である。世間一般の印象を、かなりオーバー目に私なりに推測してみると
①安定した職場である。
②あまり仕事をせず、五時になればさっさと帰宅する。
③ことなかれ主義で、安逸を好む。
④極論すれば、とりたてて有能とは言えない人であるにもかかわらず威張っており、仕事ぶりは効率的でない。
  これらは、いわば自分たちが日頃接する公務員像であり、窓口にいる職員に対するイメージと言っても良いだろう。
  これに対し、「官僚像」は、一部に共通点はあるものの、かなり変わって来ると思う。これまたややオーバー目に推測すると
①権力者であり、実際の国政を牛耳っている。
②メガネを掛けた秀才だが、国民大衆のことを考えず、人間味に欠け、傲慢である。
③国全体のことよりも、自己の属する組織を大事にし、保身に走る。
天下りにより甘い汁を吸っている。
  ほかにもいろいろあるだろうが、典型的なものとしては、こんなところだろうか。こうして見ると、「公務員像」とは随分違うようだが、おそらく「官僚」と言った場合のイメージは、自分たちが直接接する公務員ではなく、霞ヶ関に蟠居している「一握りの高級公務員」であり、自分たちは見たこともない種族である―――との感覚なのだろう。


  これらのイメージは、いずれも当っている点もあると思うが、公務員あるいは官僚の目から見れば、かなり違っている面もある。
  まず、私がなぜ公務員という職業を選んだのかという動機に少し触れてみたい。私は、東大法学部を卒業し、国家公務員試験の上級試験を受験した。職種は法律職である。良い成績で合格したし、大学での成績もまずまずだったので、成績に関する限り、官民いずれでも採用されるだろうという自惚れは持っていた。当時公務員の給与は低く、一流企業の六割から七割、一部の企業と比較すれば半分くらいの水準だった。にもかかわらず、東大法学部の場合、官庁希望者は多かった。もちろんすべての人の志望動機を知っているわけではないが、私の場合の大きな動機は、次のようなことだった。
①企業の仕事の直接の目的は、利潤の追求である。もちろん、その集成が国民経済を形成しているには違いないが、利潤追求が直接の目的というのは肌に合わない。
②その点、官庁は、国民全体に対する奉仕が直接の目的であり、民間企業よりは国民全体の利害に直接つながる仕事である。
③若いうちから、責任のある仕事を与えられ、やり甲斐のある仕事をすることができる。


  概して言えば、このような動機だったと記憶している。当時、池田勇人氏、佐藤栄作氏等、官僚出身の政治家が次の総理を狙って活躍している時期だったから、そういった意味で、「権力の座に近い」というイメージがなかったとは言えないし、また、私自身「権力志向」がなかったと言い切る自信はないが、それは、いわば副次的な理由だったと思う。

 
  私の官僚としての人生が果たして私の志望理由を充たしてくれたものかどうかは判らないし、私が良い「官僚」だったと言い切る自信もないが、「官僚らしくない官僚」という評価をかなりの人から頂いたことは事実だったと思う。もっとも、このことは、私の自己弁護の根拠にはなっても、「官僚」を弁護する根拠にはならず、むしろ官僚に対する世間のイメージを裏付ける結果になるのかも知れないが、私の承知している限り、多くの「官僚」たちは、先に述べた「官僚」のイメージとはかなり異なる人間が多かったように思う。「官僚らしい」という表現は、「現実に存在する官僚たちと同じ」というイメージではなく、「世間一般が抱いている官僚像と同じ」というイメージだったのではあるまいか。おそらく多くの官僚たちは、「官僚らしくない官僚」を志向して厳しい職務に耐えているのが現実ではないかと思う。
  もちろん保身もあるだろう。蛸壺の中に入ってしまったことによる視野の狭さもあるだろう。しかし、多くの彼らの人間性は、「血も涙もない秀才」というイメージとは、かなり隔たったところにあるのではないかと思う。

 
  「官僚」たちの善意は信じるとして、では現在の官僚たちが本当に是認できる仕事をしているのかということになると、肯定ばかりもしていられない。
  戦後の混乱期、その後の高度成長期の官僚の役割は、比較的はっきりしていた。それは、我が国の国力・経済力の回復であり、国民生活の最低保証であり、いわば国の向かうべき方向がはっきりしていたことの裏返しである。官僚に期待される役割は、国としての大目的に向かって、専門家集団として、的確な舵取りをして行くことにあったと思う。
  ところが、現在は、国の向かう方向が必ずしもはっきりしていない。以前と違って、大多数の国民が納得する国の方向が見えないのが現実である。そうなると官僚は、どちらに向かって走れば良いのか判らなくなってしまう。もちろん、概して優秀な人々だから、個々の人はそれなりのビジョンは持っているだろうが、大きなビジョンを示すのは官僚の役割ではないし、また彼らにそれを許すべきではなく、それこそが、政治の役割である。
  言い換えれば、以前は、国の進むべき道がはっきりしていたから、あえて政治によって方向を示されるまでもなく、官僚は「絶対善」に向かって走れば良かった。しかし現在はそうではない。小泉総理の「思いつき」に近い方向性を別とすれば、国の走るべき方向は見えて来ない。ある意味では、官僚が専門家としての力を発揮することがむずかしい「官僚受難の時代」に入っているのかも知れない。

 
  本筋の議論からは離れるのかも知れないが、官庁勤めをしていた私自身の目から見て、当時から問題だと思ったこともいくつかある。
  政策立案といった局面で見ると、「省利省益」をまず重視するという姿勢、あるは特定の局面について考えれば各省間の縄張り争いともいうべき「権限争議」という点である。このあたりは、国民一般の意識からは少し離れた問題なのかも知れないが、現在の官僚制の一番大きな問題ではないかとも思う。
  私自身も含め、官僚にとって、「うちの会社」というのは、「小泉さんを社長とする政府全体」ではなく、「大臣あるいは次官を社長とするうちの省」、更には「局長を社長とするうちの局」という感覚が強い。これは大きな問題だと思う。私自身の場合には、元来「省利省益」を重視するという考えには批判的だったし、内閣法制局に出向して政府全体の観点から仕事をしたという経験により、その批判的な気持は一層強まっていた。在職中に「私は、国益のために仕事をしているので、通産省の省益のために仕事をしているのではない」と広言したことも何度かある。
  そのような「省」の集合だから、各省間のトラブルも多い。それを調整するのは内閣の仕事である。ところがよほど大きな問題で、大臣や次官が登場するようなところまで話が広がれば調整の場はあるのだが、局長レベルでのトラブル、あるいは課長レベルでのトラブルということになると、適切な調整の場がなく、百年戦争になってしまう。あるいは、ある良い政策が提案された場合でも、ある省の反対によりそれが塩漬けにされるという消極的解決になってしまう。
  それを解決する場は、内閣審議室といった組織だと思うが、私の在職中は、それが十分機能を発揮しているとは思えなかった。「官邸重視」という昨今の動きの中では、この点はかなり改善されているのかも知れないし、また、そのことを期待したい
  なお、これに対する答の一つとして考えられるのが、トップクラスの職員の政治任用、上級公務員の一括採用などの方策だろうが、それには各種の問題もある。現在でも、幹部又は幹部候補生とその他の職員との間の各種格差の問題はあり、それはそれとして真剣に考えなければならない問題ではあるが、少なくとも現在の公務員の間には「同じ〇〇省の人間だ」という仲間意識はある。しかし、政治任用や一括採用になれば、「原住民」である一般公務員を、「植民者」であり、かつ、その仕事に精通しているとは必ずしも言えない高級公務員が支配するという構造になり、両者の一体感は損なわれ、そこから各種の問題が生じることも予想される。これらの点も考えなければ、安易に答が出せる話ではないように思う。

 
  もう一つ、日常的な事務処理に当たっての問題点は、比較的マイナーな問題かも知れないが、「係長行政」という点である。役所での多くの仕事は、下からの積み上げで進められる場合が多い。例えば、ある許可申請がなされた場合、それはまず係長程度のレベルで審査されることが多く、それが課長補佐、課長、局長、ことがらによっては次官、大臣と上がって行く仕組みになっている。組織としては当然のことかと思うが、「役所の非効率性」の一つの原因になっているのかとも思う。そういった意味では、「職務に忠実で仕事熱心な係長」というのは、行政効率化の一つのガンだとも思う。
  私自身にも経験がある。ある程度の地位に就いてからの話だが、下から上がって来た書類を見ると、随分時間が掛かっている。内容的には、ほとんど問題のない案件であり、政策的にもむしろ進めるべき案件である。どうしてこんなに時間が掛かったのかと担当者に聞いてみたら、「○○の点をもっと詰める必要があり、その結果によっては結論が変わって来る可能性もあるので、補足資料を提出して貰って、慎重に検討しましたので」といった類の回答だった。そのこと自体間違いではない。ただ、私の目から見れば、方向性のない検討に時日を費やしていたという気がしないでもない。
  役所のルールを無視して私のところに直接来れば、一日で片付いてもおかしくない問題である。しかし、そうすることが良いことだとは一律には言えない。上になればなるほど、個別の案件を精査する時間は持てない。また、上になるほど「大所高所」からの判断はできるかも知れないが、それはややもすれば「政治的判断」になってしまい、公正さを欠く可能性すらある。
  当時私は、若い人に良く言っていたのだが、①自分の仕事に忠実だということは良いことだ。②しかし、それだからと言って、百点満点の答が出るまで仕事を抱え込むのは良くない。③簡単には結論が出せない問題だと思ったら、まず課長に相談し、場合によっては部長や局長に相談して、おおまかな方向感覚を持った上で、精査すべきだ。④この場合、担当者が論点を整理すべきことは当然だが、課長は「そんなこといちいち俺に上げるな。自分で判断せよ。」とは言わないで欲しい。少なくとも、私はそのようなことは絶対言わないから、私の判断が欲しいときは、遠慮せずに早い段階で持ち込んで欲しい。――――
  担当者がサボって放置するといった悪質なケースは別として、役所の「非効率」の一つの原因は、担当者の「怠慢」ではなく、むしろ担当者が「真面目で職務に忠実」であることにあるような気がしないでもない。

 
  話が飛んで、予想以上の長広舌になってしまった。話を急ごう。
  昨今「反官僚・反公務員」観が強くなっている一つの大きな理由は、小泉総理の政治姿勢にあると思う。小泉さんは、「改革」を大きな柱としているし、これが国民一般の共感を呼んでいる大きな理由だと思う。私は小泉さんの「改革」は、概して、思いつきに近い空疎なものだと思っている。「改革」の必要を否定する積りはないが、今あるものには、それなりの積み重ねもあり、それなりの合理性もある。多くの場合、それを変えるには、多かれ少なかれ、現状の分析とあるべき姿の議論が必要だろう。にもかかわらず、郵政民営化に示されるように、まずスローガンありきで、十分な議論がないままに走って、いつの間にか既成事実になってしまった「改革」があまりにも多いと思う。「十分な議論が必要だ」と言っただけで、「抵抗勢力」、「守旧派」というレッテルを貼られたのでは、真面目な議論もできない。ここで小泉論や改革論をする積りはないので、この辺で止めておくが、このことと「反官僚」とは、かなり密接なつながりがあると思う。
 
  第一に、いま書いたような理由から、官僚は多くの場合「抵抗勢力」、「守旧派」に属する結果となり、小泉さんの改革を支持している積りの人から見れば、排除すべき対象となる。
  第二に、小泉さんは「改革派」を標榜することによって若い世代の支持も得ているようだが、若い人は概して言えば、変化を好み、「革新的」である。かつての「革新勢力」が若い人を引き付けた理由もその辺にあるだろう。
  表面だけを見れば、小泉さんの言動は、改革、場合によっては革新的にすら見える。しかし、彼の革新性は、本来の革新性ではなく、権力を握った者の恣意的な革新性に過ぎない。その似而非(えせ)革新性に惑わされて、打倒すべき相手は、権力者たる政府ではなく、頑迷固陋な「抵抗勢力」となる。「官僚」はその好個の標的である。
  本来官僚の頂点に立ち、官僚の責任をも自分の責任として負わなければならないはずの総理が、官僚を悪者にして、改革者の顔をしているのは奇妙なものだと思うが、それが若者の「改革志向」と奇妙に一致しているのが現状だと思う。官庁の抵抗で目的が果たせない場合、本来なら総理は、その指導力のなさを問われて批判の対象になるはずだが、「悪者に敢然と立ち向かって挫折した勇者」というプラスイメージになるという奇妙な現象が生じている。
  若者論ということになると、昨今の国粋主義的風潮が、「戦争を知らない若者たち」によっても支えられているということは、最も怖いことだが、この論と直接の関係はないので、それには触れない。
  第三に、昨今の不況、就職難、小泉外交の手詰まりなどから来る閉塞感である。閉塞感を持ち、現状に不満を持つ人々の、怨嗟の的は、いろいろあり得るが、
①まず第一の怨嗟の対象は政府だろう。しかし、その点は、小泉さんが「擬似改革」を振りかざして、実に巧妙に逃げてしまった。
②第二の対象は、弱肉強食の世界になりつつある現在、ホリエモンによって代表される強者たちである。怨嗟の標的としては最も適切な対象だとも思うが、不思議なことに「強者」たちはその標的となっていない。閉塞感のある時代は、それを打破する英雄が待望される時代でもあると思う。小泉さん然り、石原東京都知事然り、ホリエモンもその一人だと思う。よほどの自信家は別として、自分がホリエモンになれる自信のある人はまずいないだろう。そうなると、彼は、自分とは次元の違う存在となり、怨嗟の対象ではなく、むしろ憧れの対象であり、時代の生んだスターになる。
③残された怨嗟の的は、「自分とそれほど違わない人、あるいは、ほんのちょっぴり優れているだけの人、自分でも運が良ければなれたかも知れない人」で、安定した職業に就き、権力を持ち、「国民のための改革」に抵抗している官僚たちである。「銀行員をはじめとする一流企業のサラリーマン」もある程度怨嗟の対象になり得る存在だが、彼らはリストラに脅かされる存在でもある。そうなると、さまざまな面で怨嗟の対象になる好個の的は、「官僚」である。


  思いつきの面も多いかも知れないが、昨今の「反官僚」ブームの根源はその辺にあるのかなという気がしている。また、小泉さんが、その点をうまく利用して、「良いところは自分のせい、悪いところは官僚のせい」ということで、怨嗟の標的から逃げ、それを逆に自分の推進力に利用しているという気すらする。


  これまでの本題からは少し外れるかも知れないが、共通の問題として挙げておかなければならないのは、「小さな政府」という考えである。
  「納税者」の立場からすれば、「小さな政府」が望ましいことは当然である。しかし、「受益者」の立場からすれば、必ずしもそうではない。年金の問題一つをとってもそうであり、「小さな政府、少ない年金」では、問題の解決にはならない。高度成長一点張りの時代には「小さな政府」が適切だったかも知れない。しかし、いまや、政府の力に期待するところは、より増大しているのではないかという気すらする。小泉自民党も、民主党も、更にはジャーナリズムすら、「小さな政府」が当然の目標のように語っているようだが、これこそ国民的大議論が必要な問題だと思う。
  民間企業の効率化は、生き残りのために当然のことかも知れないが、それを進めれば進めるほど、非効率な部分の受け皿としての公共部門の役割が増大するという面もある。公共部門の役割は、効率という物差し以外の物差しによって計られるべき面も多いと思う。「規制緩和」というのも聞こえの良い言葉だが、一方で何かことが起こると、「政府の監督が不十分だ」という批判や、「政府が手を差し伸べるべきだ」という声が必ず出て来る。経済界の言う「規制緩和」は、企業の活動にとって制約となる規制を緩和せよという面が大きく、国民全般から見た規制の必要性とあい容れない場合も多い。
  小泉政権は、各種の諮問会議等において「民間の声」を重視するという傾向が強いが、その「民間」というのは、一部の経済人という側面に偏っている場合が多い。「民間」が「国民」を意味するとは限らないにもかかわらず、「民間代表」あるいは「経済界代表」はあたかも「国民代表」であるかのように振る舞い、またいわゆる国民一般も同じような錯覚を起こして、「官」に対する「民」の発言に、喝采を送っている面も多々あるように思う。「小さな政府」や「規制緩和」もその典型的な事例ではないか。


  無駄な公共事業の縮小、公務員の人員削減なども必要だろうが、これらは、さまざまな検討を繰り返した後ではじめて出て来る結果であり、決してそれ自体が目的ではない。郵政民営化や官庁組織・大学等の独立行政法人化等によって、見せ掛けの公務員の数が減るといったことは、何ら問題の解決にはつながらず、「国は、何に責任を持って、どんな仕事をするのか」というところが出発点だと思う。その出発点の議論のないままの公務員削減計画などは、その方向感覚や官庁組織の肥大を防ぐという点を除けば、かなりナンセンスに近いような気もする。少なくとも、本末転倒のような気がしてならない。
  これまた既成事実になりつつある「三位一体」改革も同様である。「中央がやるよりも地方がその判断と裁量に基づいてやる方が適切な仕事」について、財源とともに地方自治体に仕事を委譲することは当然の方向だと思う。しかしながら、現状の「三位一体改革」は、根本の議論を欠いたつじつま合わせの議論が多く、単なる「国の財政面での責任回避」の域を出ないと思われるものが多い。
  また、仮に一定の軌道に乗ったとしても、地方自治体の財政力格差の問題は、避けて通れない大問題である。現在の政治家を見ても、官僚を見ても、東京を中心とする大都市出身者が多く、土の香のする人が少なくなった。彼らの発想による改革が、都市エゴイズムによる地方切捨ての方向に向かうことを恐れる。


  今後我が国は、人口減少社会に向かう。人口が減少して行くこの国の、今後の国土のあり方、地方と中央のあり方、更には外国人に対する考え方など、我が国の命運を左右すべき問題は多いし、これらについて掘り下げた議論が必要だと思う。
  公務員論から離れた点も多々あるが、我が国は現在転換点にあり、思いつきの「小泉改革」や感情的「公務員悪玉論」などからは、その答は出て来ないものだと思う。