堀江さんと小泉さん

 堀江社長の逮捕その他、ライブドアを巡る騒動は、予想以上の進展を見せているようである。ここ数日来、私なりにその感想や評価をまとめてみたいと思い、今日やっとパソコンに向かったのだが、どうもうまく整理できそうにもない。まあ、無責任に、断片的な感想を書き連ねることにしたい。
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 今回の事件の悪質さの度合いがどの程度のものなのか、経済界の自浄作用を超えており司直が介入すべき性格のものなのか等々については、あまり判断能力がないのだが、検察当局もかなり思い切った行動に出たものだという気はする。その勇断に敬意を表したい気持が半分、経済界への介入にしては少しやり過ぎではないのか、という気持が半分というのが正直なところだ。常識的に言えば、まず金融庁や取引所あたりからの注意や警告があって、その上で司法当局の出番があるような気もするのだが、行政指導等を排して「事後チェック」を基本とするという昨今の風潮からすれば、これが正常な流れなのかも知れないという気もする。
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 悪質さの程度は判らないが、堀江氏に対して、「怪しからん」という気がそれほどしないのはなぜなのだろう。思い起こしてみれば、堀江氏は「市場経済」や「マネーゲーム」の申し子であり、「勝ち組」のチャンピオンだった。自民党もジャーナリズムも、むしろ彼を称賛する傾向が強かったように思う。他方、私のような旧派からすれば、彼をまともな経済人として評価する気にはならず、いわば「バクチに成功した成り金」というイメージが強かった。したがって、「多少の怪しげな手法を採ることはいわば当然」という気もしていたし、それに乗っかって利殖を図る人々も、「怪しいのを承知の上でリスクをとる」というパターンだという印象が強かった。
 したがって、今回の騒ぎも、「想定内」のことであり、「被害者」に同情する気持もさほど湧かず、冷静に傍観できるという気持なのかも知れない。彼は一種の「落ちた偶像」なのだろうが、私から見れば、等身大の彼は「偶像」でも「犯罪者」でもなく、「偶像に仕立てられていたもののメッキがはげた」というだけのことで、さほどの話ではないような気がしないでもない。
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 それにしても、彼を時代の申し子として讃えるムードに小泉政権の市場万能主義が寄与したということは否定できないだろう。「みんな小泉さんのせいなのだ」とまで言う積りはないが、市場万能、格差是認、弱者無視という小泉・竹中路線の性格が、堀江氏を生む一つの追い風になっていたことは事実だと思う。そういった意味でも、小泉さんや武部さんの昨今の開き直りや責任転嫁は、無責任であり、かつ、羞恥心を欠いているという彼らの性格を遺憾なく発揮している。
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 小泉さんと堀江さんは似ているところが多いような気もする。どちらも挑戦者であり、秩序の破壊者である。その象徴が、堀江さんのTシャツであり、小泉さんの長髪である。いずれも一昔前には、通常の社会人としては異端の風俗であり、芸術家をはじめとする俗社会を離れた人々、世間的にはアウトサイダーである人々の象徴だったように思う。「変人である挑戦者」に似つかわしいものと言えるのかも知れない。
 堀江氏が「近鉄球団」や「ニッポン放送」で示した挙動には、私自身むしろ喝采を送りたい気持だった。私の場合、堀江氏にいかがわしさや違和感を感じなかったわけではないが、それ以上に、特権意識を持ちその上にあぐらをかいているプロ野球業界や放送業界、さらにそれらを擁護する側に回る多くの大企業に対して、「自分たちも相当程度いかがわしいのに、一体何様だと思い上がっているのだ」といった性格の反感が強かったように思う。小さな毒が大きな毒に一矢報いているという印象だったのかも知れない。
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 その論理や心情を更に進めて言えば、小泉政権小泉改革にもある程度の共感を覚えても良いような気もするのだが、私が小泉さんに対して感じるのは、概ね反発ばかりである。私にとっての小泉さんと堀江さんの違いはどこにあるのだろうか。
 その第一は、堀江さんの冒険は、彼と彼の追随者だけがリスクを負う私的な冒険であるのに対し、小泉さんの冒険は国民全部を引きずりこんだ冒険だという点にある。堀江さんがどんな挙動を採ろうと私には直接は関係ないが、小泉さんの場合はそうは行かない。ところが、小泉さんはその責任をほとんど自覚していないように見える。
 もう一つ、堀江さんは既存の秩序の中で規制を受ける側であるのに対し、小泉さんは、それを作る側だということだと思う。規制される側がその抜け道を探そうとするのは、いわば人間の本性に沿ったものであり、自分がリスクを負う限り、ことの本質においてはさして咎め立てするには及ばないが、規制する側、秩序を作る側がそうであっては困る。彼らは、あくまでも王道を行き、個人的な心情や「信念」ではなく、より高い次元でものごとを考えなければならない立場にあるのだと思う。
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 「ジャーナリズムも堀江氏を賞賛していた」という小泉さんの逃げ口上は、彼の無責任な体質を発揮して見苦しい限りだ。いわば「無責任な批評家」であることを許されるジャーナリズムとそうでない為政者を同一視することはナンセンスだと思うが、それだからと言って、ジャーナリズムをすべて正当化することも妥当ではあるまい。いま私が一番恐れているのは、ジャーナリズムが手のひらを返したように「堀江叩き」に転ずることである。ことの本質は、「いかがわしい面を持つ冒険者が、既成の秩序から外れたルール違反をした」ということに過ぎず、「英雄が犯罪者になった」というほど落差の大きい話ではない。極端から極端に流れるのがジャーナリズムの常とは言え、あまり大きな振幅を示さず、しっかりした原点を持って欲しいと思う。
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 全く無責任な感想を言えば、今回の騒動で、「小泉改革のいかがわしさ」に多くの人々が気付いたとすれば、それは今回の騒ぎの大きなプラス面だと思う。実は、小泉改革ホリエモンが「直接の関係」があるとは私は思ってはいないのだが、「小泉改革のいかがわしさ」のひとつの判りやすい象徴として、小泉さんのメッキがはげ、多くの人々が「小泉マジック」から目覚めるきっかけになることを評価したいのだ。
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 結局はいつもながらの小泉批判になってしまったのかも知れないが、ついでに、以前作った政治がらみの短歌をいくつか御披露しておこう。
 ・思慮浅き言葉を「肉声」と評価する流れをややに怖れて過ごす(13627)
 ・「信念」は未熟な思考の裏返しテレビを見つつ世相を思う(13725)
 ・獅子吼する総理の顔が傲慢の「傲」という字に次第に似て来る(1387)
 ・改革という言葉良しさはされど行き付く先は地獄か修羅か(1457)
 ・行く先の見えぬ世にして改革という言葉のみ一人歩きす(1457)
 ・為政者に知性の香り失せてより何年の年経たんとするや(1594)
 ・ああ言えばこう言う術(すべ)に長(た)けし人国導きて壊さんとする(1598)
 ・既成事実作ってしまえば勝ちだよと誰かの嘯く声が聞こえる(16210)
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 以上書いてはみたものの、予想した通り、あまり出来の良い作文ではないし、私自身も不本意な内容なのだが、書いた以上はボツにするのも心残りなので、ブログには載せてみようかと思っている。