月と30ペンス

 3年くらい前に書いた駄作である。東京創元社創元推理文庫で、「50円玉20枚の謎」というテーマで推理小説の募集があった。「ある若い女性が勤めている本屋さんに、週に一度、50円玉を20枚持って両替に来る男がいる。そのことをテーマにした推理小説を募集」ということだった。なかなか面白い試みだと思ったので、筆が走るままに書いて応募したのが、この作品である。結果は見事に落選。
 全くリアリティーのない作り物だし、「推理小説」の範疇にも入らないものだろうから、落選は当然だと思うが、私なりに無い智恵を絞ったものではあり、「小説」を書く積りで綴り方を書いたのは、成人後ははじめてのことだ。そんなわけで、皆様に軽蔑されるのを覚悟の上で、以下掲載することにする。考えてみれば、懸賞に応募したこと自体、人目に付くことを期待していたわけだから、落選したからと言って、いまさら恰好付けて隠し立てすることもあるまいという開き直りでもある。
 なお、投稿にはペンネームを使用したが、これが「私のペンネーム」というわけではない。ペンネームの理由は、作品をお読みになればお判り頂けると思う。この催しには、推理小説家の北村薫さんや若竹七海さんが関係しておられたようなので、「高岡正子」「円紫」は北村さんの作中人物の名前を、「苦竹ななみ」は若竹七海さんのお名前をもじった。一種のパロディーの積りでもある。
 それにしても、良い歳をしてなぜこんなものを公表するという愚かな判断をしたのか、自分でも判らないのだが、所詮は私のブログという「私物」だということで、勝手な振る舞いをさせて頂きたい。

             
 
             月と30ペンス  高木園造
                 

                 プロローグ

 このところ、晴れた日が少ない。今日も雨だ。私は、お気に入りのチェック模様の傘を差して学校を出た。秋の試験休暇も終わり、仲間たちと顔を合わせるのも久しぶりだ。
 目的地は、練馬の駅前の小さな喫茶店である。どこと言って特徴のない店だが、客には女子学生が多く、私たちお得意の長喋りをしていても、嫌な顔をされないのがありがたい。傘の雫を払って店に入ると、奥のテーブルでニガと円紫がジュースを飲んでいた。
「ごめん、ごめん。待たせちゃった?」
「ううん、今来たばっかり。」そう言う円紫の前のグラスのジュースはもう残り少なである。講義の都合で時間を気にしながらも遅れてしまった理由を二人に説明する。もっともそんなことを気にする二人ではない。二人ともすっかり話に花を咲かせている。
「そのおじさん、随分急いでるわけね。」
「そうなの。勝手な注文をしておいて、それで何となくイライラしている感じで、ろくにお礼も言わないんだもん。頭に来ちゃう。」
 聞いているのが円紫で、答えているのがニガである。
 私達三人は、この近くにある女子大学の文学部三年生。教養課程のころは授業もほとんど一緒の仲良し三人組だったのだが、最近では専攻が違うので顔を合わせる機会も割に少なくなった。その三人組の久々の出会いなのだから、話題にこと欠くはずがない。
  <ニガ> の本名は苦竹ななみ、 <ニガタケ> と読む。随分変わった苗字だが、彼女の郷里には結構珍しくない名前なのだそうだ。すらっとした痩せ型で、もっとも背も小さい方でそのことを本人は気にしているのだが、ボーイッシュでなかなかの美人である。
 もう一人の <円紫> は円道紫織、随分堅苦しい名前で、それもそのはず関西のお寺の長女である。「あなたが落語家になれば、芸名は当然円紫だネ。」ということで、実は入学当初に、落語好きの私が付けたニックネームなのである。性格もどちらかと言えばしっかり型で、三人の中ではちょっとした姉さん格、身長百七十センチを超えるノッポである。顔のことを書かないからと言って、けっして不美人だというわけではない。
 私は高岡正子、正子と書いて「ショウコ」と読む。正月生まれに因んで父が付けた名前らしいが、たいていの場合「マサコ」としか読んで貰えないのが、幼いころからの私の不満である。二人と違って、お世辞にもスマートとは言えない体型。しかし、本音を言えば、その私の体型、私はそれほど嫌いでもない。
 その三人組の会話が延々と続くのだが、かいつまんで言えばこういうことだ。
 ―───ニガはこのところ、駅前の本屋のレジでアルバイトをしている。二月くらい前、60才前後の男から50円玉20枚の両替を頼まれた。 <頼む> と言っても、決して低姿勢ではなく、ニガはどちらかと言えば悪い印象を持ったようだ。しかし、 <両替やトイレのお客にも親切に> というのがその書店のモットーだということで、そのときニガは、「毎度ありがとうございます」と最大限の笑顔で応対した。
 「でも、何でありがとうなのかな。その人、両替だけで、本を一冊も買わないんだよ。」 それが一度だけならどうということもないのだが、それ以来、ほとんど毎週そのお客は両替に現れる。考えてみるとみんな土曜日みたいだ。先輩の店員に聞いてみたら、これまでに来たことのないお客だという。当然のことながら、店の中で話題になってはいるのだが、50円玉が貯まることは、お釣りが必要な書店にとってはむしろありがたい話だし、お客とトラブルを起こしたくないというのが店長を含めて店全体の雰囲気らしい。
 「だけど、気になるんだよね。そのおじさんに直接聞いてみようかと思ったこともあるんだけど、なにしろ父と同じくらいの歳の人でしょ。それに何となく威張ってるのよね。なんだか、干瓢みたいな人。うら若き乙女としては、どうも気遅れしちゃって。」
 しばらくは円紫とニガの対話が続き、私は聞き役に回る。
 「干瓢みたいって、一体どんな <みたい> なの?」
 「そう改まって聞かれても困るんだけど、何だか <しわしわ> っとしてて、 <へなへな> ってしてて。」 干瓢のことはそれ以上詰めても話が発展しそうにもない。
 「あんまりきちんとした恰好はしてなくて、それに、何となくセカセカしてると言ったわね。」
 「そうなの。不精髭を生やしていることもあるしね。」
 「じゃあきっと近所の人ね。犬の散歩でもしてるのかしら。近くに犬を繋いだままだから慌ててる。でも、犯罪には関係なさそうね。犯罪と関係あれば、人目を引くような本屋さんでの両替なんてしないでしょうよ。」
 「私もそう思う。変な人だけど、悪い人には見えない。」
 その後もいろんな話は出たけれど、決め手になるものは何もない。アイデアが出ても、  「ちょっとありそうもない話ね」と、誰かがやがて打ち消してしまう。
 結局、犯罪には関係ないようだし、近所の人らしいけれど―――それ以上のことは単なる想像でしかないという結論になってしまった。お互い名探偵にはなれそうもない。でも興味のある話ではある。今夜あたり気になって眠れないかも知れない。
 「よし判った。いつか後をつけてみようよ。次の土曜日あたり怪しいんでしょ。」
 それが私の結論で、二人もそれに賛成してくれた。
 明日また会うことにして、その日の長い長い会議は終わった。

                   
                    一
 
 ――――私は本屋のレジに立っている。お客が本を持って現れる。
 「1000円ちょうどです。消費税込みで1050円頂戴致します。」
 次のお客はと見るとどうやら父らしい。すり切れたセーターを着て、不精髭をうっすらと生やしている。そう言えば今日は土曜日だ。まだ私が東京に出る前、休みの日にはいつも不精髭で、母に叱られていたのを思い出す。
 「両替を。」およそ愛想のない声と表情で父が言って、50円玉を差し出す。どうやら20枚あるらしい。私も無愛想に1000円札を一枚差し出す。
 気が付いてみると、レジの前にいるのはたしかに私なのだが、見掛けはニガそっくりで、ショートカットのボーイッシュな髪型が良く似合っている。「悪くないな」と思う。それにしても、それを見ている私は一体どこにいるんだろう。
 ――――目が覚めた。頭の中はまだぼんやりしている。半ば眠っているような状態なのだろうか。レジの中に立っている自分と、それを見ている自分――――そう言えば、たしか落語にそんな話があった。慌て者が行倒れの人を見て、「ア、確かにこれは俺だ。でも、こいつが俺で、じゃあそれを見ている俺は一体誰なんだろう。」たしかそんなオチだった。それに似ているが、私の夢の中では良くあることのような気もする。
 レジの中の私はニガにそっくりだったし、私もそのことを喜んでいたようだ。とすれば、私としては認めたくないことではあるが、多少太めの私の体型に不満を持ち、ニガのスタイルに憧れを抱いているのだろうか。それはそれとして、私がニガそっくりで、ニガが私そっくりだってちっとも不思議はないじゃないか。円紫がノッポの女の子じゃなくて、「円紫」という名の粋な落語家だってちっとも構わないじゃないか。SFには、この世界とそっくりだが細部に違いがあるというパラレルワールド物があるようだが、人生ちょっとのズレで、全く違う道を歩むことだって稀ではない。だとすれば、そのズレなかった方の世界もあったって良いじゃないか。私がニガで、ニガが正子で、円紫が「円紫」で――――半分眠っている頭の中で、夢の続きのようにそんなことを考えていた。
そう言えば、私が中学一年生のころだったろうか。少々お酒を召した父上が、
 「ねえ、ショウコよ。父さんと母さんってのはショウコの大恩人なんだぞ。もし父さんと母さんが結婚してなかったら、ショウコは金輪際生まれて来ない。もし父さんと母さんが、ある晩その気にならな――――」
 「あなた、娘の前で駄目ですよ。」父の話は母によって遮られた。考えてみれば不思議なことには相違ない。父と母が結婚していなければ、多分私は生まれていないだろう。その父と母の結婚だって、まさか生まれたときから赤い糸で結ばれていたわけじゃなく、偶然の要素も多分にあっただろう。それだけじゃない。私の原材料となった父の産出物がもうちょっとノロマだったら、私の兄弟姉妹は生まれていても、私自身は生まれていない。
 「どっちにしても、ショウコと同じような可愛い女の子は生まれていたろうよ。そして、名前は当然ショウコさ。父さん母さんから見れば、どっちだって良いんだよな。どうせ違いが判りっこないんだから。だけど、今のショウコにとっては決定的だ。だって、自分がこの世にいるかいないかという根源的な違いなんだからな。」
 その日の話はそれで終わりだったように記憶している。私の代わりに生まれるのがなぜ女の子なのか、父の論理も飛躍しているが、それ以外の点ではその通りだと思った。
 そのころはその落語のことは知らなかったけれど、「ここにいる私は一体誰なんだろう」と不思議な気がしたことを覚えている。私だけじゃない。父や母の存在自体についても同じことだ。そうなると、私も父も母も、むしろいない方が自然なくらいの存在になってしまう。私がニガでニガが私だって、ちっとも不思議ではない。
 「ここにいる私は一体誰なんだろう」
 やっと本格的に目が覚めた。下宿の雨戸のすきまから、朝の日差しが差し込んでいる。さっきまでぼんやり考えていたことが、まともなことのようにも思えるし、全くバカバカしい話のようにも思えて来る。もう起きなければならない時間だ。私は慌てて飛び起きて、洗面所に駆け込んだ。
 うら若き乙女として書きたいことではないが、トイレに腰掛けて用を足しながら夢の続きを反芻していたら、夢のはじまりのあたりを思い出した。
 「そうだ、これは良いアイデアだ。今日三人で集まったときに披露してみよう。」
その日の午後の出会いが待ち遠しかった。


                  二

 放課後、例の喫茶店で落ち合う。今日は、午後の日差しが目にまぶしい。
 「ねえ、一つ発見があるの。」私が真先に切り出した。
 「昨日いろいろ意見が出たでしょ。でもみんな賽銭泥棒とかコピー代とか50円のことばっかり考えてた。50円じゃないのかも知れないのよ。」
 「じゃあ何なのよ。問題は50円玉よ。」とニガが言う。
 「50円玉には違いないんだけど、ただの50円じゃないのかも。つまり1050円ってことよ。」
 「それなあに。」円紫にはピンと来ないらしい。三人の中では頭の回転が一番速いはずの彼女も、今日は冴えていないのか、何となくぼんやりした雰囲気である。
 「ア、消費税。」さすがにレジ嬢だけあって、ニガは判りが早い。
 「そうよ、消費税かもね。もし千円ショップというお店があったとすれば、お客が払うのは1050円。これなら、50円玉が貯まるでしょ。」私は少々鼻高々である。
 「百円ショップは知ってるけど、千円ショップなんてあるのかなあ。それに、百円ショップの百円は、消費税込みの値段じゃないかしら。もし千円ショップってのがあったとしても、それは、消費税込みで千円かもよ。」ニガの疑問である。そうかも知れない。でもアイデアとして捨てたものではないというのが、三人の結論だった。
 「それよりも、これは私の勘なんだけど、事件の裏には、どうも私のオヤジが絡んでいるような気がするのよ。歳恰好も父と一緒くらいでしょ。もちろん見覚えのある顔じゃないけど、父に依頼された私立探偵とか――――。昨夜あれから考えてるうちにそんな気がして来ちゃった。」当然のことながらこれはニガ。
 「良く判らないけど、あり得ない話じゃないわね。それより、私にも新発見があるのよ。これは、おのおの方のような単なる想像じゃなくって、厳然たる事実。」
 それまで比較的無口だった円紫が、やっと出番が来たとばかりに話しはじめた。
 「あまりにもショッキングな事実なので、二人に言おうか言うまいか迷ってたんだけど―――――。」無口だった理由は、どうやらその辺にあるらしい。
 「私の従兄に推理小説マニアがいるの。昨夜たまたまそいつに会ったんで今度の話をしたら、彼曰く <そんなことも知らないのか> ですって。なんでも、出版の元創社が <五十円玉二十枚の謎> ってテーマで推理小説を募集してて、その前提となる事件の中身が、ニガの経験とほとんど同じなのよ。だから、この事件は、その小説募集と絶対に関係があるっていうのが、彼の意見なの。彼に言わせれば、 <かの有名な元創社の小説も読まずに、それで文学部の学生と言えるのか> ですって。失礼しちゃうわ。」
 これは、重大ニュースである。私達三人とも、元創社の悪だくみに乗せられていたということになるのかも知れない。実在の人物である私達が、架空の人物がうごめく小説の世界に踊らされて良かろうはずがない。
 「でも、それって小説の話でしょ。私の話は私自身の実体験よ。もし元創社の小説募集が関係あるとしたって、私のところに干瓢おじさんが両替に来るっていうのはこれまた厳然たる事実なんだから、その理由探究には十分意味があるはずよ。」しばらく考えてからニガが言う。それまたもっともな話ではある。結論は「それは検討上の重要な素材である」という至って平凡な答えで終わった。
 「それともう一つ、これは直接関係はない話なんだけどね。」円紫の話が続く。
 「その従兄の友達が、大蔵省の造幣局の広報に勤めてるんだけど、最近、50円玉についての質問の電話がやたら多いんですって。サイズとか重量とか、成分の詳細だとか発行量だとか。従兄とその人との間でそのことが話題になって、従兄が元創社のこと教えて上げたら、その広報係さん <元創社もとんだ罪造りだ> ってぼやいていたそうよ。」
 話はなかなか終わらない。「事件」の話だけではなく、おいしいものの話や、タレントの結婚話まで、若い娘たちの話の種にはこと欠かない。そして、いつも最後の話は、
 「私たちって、本当に男の子と縁がないね。」
 「こんなに美人揃いなのにね。」
 「美人で、知的で、高貴なイメージがあって、ちょっと近寄り難いからかもね。」
どれが誰のせりふなのかはこの際省略しておこう。
 今度の土曜日に私と円紫とで、干瓢おじさんを尾行することなどを決めて、その日の会議はお開きになった。喫茶店を出ると、もう外は真っ暗だった。秋の日は釣瓶落しとは良く言ったものだ。


                  三

 いよいよ当日である。その日が干瓢おじさんの出現日かどうかは判らないが、ニガの説によれば、出現確率は80%くらいだという。私と円紫は、土曜日にもかかわらず、夕方からニガの書店まで出掛けて、レジの近くで立ち読みをはじめた。その点、本屋さんは都合が良い。ニガの話だと、この時間からなら30分くらいのうちには現れるはずだということだから、立ち読みで嫌な顔をされるほどの長時間でもない。
 時計を見るとちょうど五時、そろそろ出現時間のはずである。中年の男が入って来た。まっすぐ文庫の棚に急ぐ。どうも違うようだ。次は、若いアベック、その次の人物――――どうもそうらしい。なるほど、どことなく <干瓢おじさん> だ。やはりちょっぴり緊張する。たいした冒険にはならないだろうが、念のために円紫から従兄さんに、電話で本日の行動予定を知らせて、 <夜10時ころ電話下さい。もし私が万一不在だったら然るべくよろしく> との依頼がしてあるのだそうだ。何をどうよろしくなのかは良く判らないが。
 干瓢おじさんは両替を済ませて出て行く。それほど焦っているようにも見えない。ニガの方を見ると、私に向かって小さなウインクをした。どうやら間違いないらしい。
 かねての打ち合わせ通り、まず円紫が小父さんの後をつける。そして、私が円紫の後をつける。二人一緒でも構わないとは思うが、それでは目立ち過ぎるというのが円紫の意見だった。どっちが先かと言えば、それは間違いなく円紫である。私が先なら、人混みに入ると見えなくなってしまう虞れがあるが、その点背高ノッポの円紫なら安心である。
 干瓢おじさんは、別に警戒しているようすもなく、ややゆっくりめに街を歩いて行く。犬は連れていない。格別の事件も起きそうにはない。書店からかれこれ15分も歩いただろうか、落ち着いた住宅地の中の割に大きな家に、おじさんは入って行った。奥さんらしい人との話声がする。門柱の脇には、 <秋田 元> との表札も出ているし、番地も書いてある。いよいよ犯罪とは関係なさそうだ。
 円紫と私は、家から少し離れたところで、表札の名前と住所を手帳に書き写した。
 「随分大きな家ね。昔からの農家かしら。」円紫が言う。このあたりは、サラリーマンの分譲住宅らしい家の合間に、農家らしい大きな造りの家も多い。なにしろ昔有名だった大根の産地である。
 ニガのアルバイトの時間も、もう終わったころだ。書店で待っていたニガを連れ出して、例の喫茶店に入る。私と円紫の報告を聞いてニガが言った。
 「住所と名前が判ったのなら、手紙出して聞いてみる手はあるわね。直接聞くのは嫌だけど、手紙なら、こっちに返事が来るように工夫さえすれば、偽名でもいいしね。」
 「何をしている人なんだろう。随分大きな家だったわね。」
 「私、調べてみよう。」円紫は席を立った。どうやら電話を掛けに行くらしい。三人とも <ケイタイ> を持っていないというのも、今どきちょっとした稀少価値だろう。
「判った判った。」しばらくして円紫が戻って来た。
 「一〇四で調べてね、丸菱商事のOBの名簿作りって口実で秋田さんのお宅に電話したの。良さそうな奥さんが出て来てね、 <主人はずっと高校の教師を致しておりまして、会社勤めを致したことはございません> ですって。もと高校の先生だったんだ。これなら直接接触しても大丈夫そうね。」
 結局私が手紙を書くことになった。まさか何かのトラブルに巻き込まれるということもないだろうが、本名を書いたばかりに <嫁入り前の身> に万一何かの差し障りが生じてもいけないので、円紫の従兄の住所で、その家の下宿人ということにして、女名前の偽名で出すことにする。従兄には、後で円紫が連絡して置くという。
 その夜は大仕事だった。ニガに迷惑が掛かってはいけないので、 <駅前の書店のある店員> の経験ということにぼかして経過を説明した上で、次のようなことを書いた。
 ――――判らないことはいろいろあるのですが、私達三人の想像は次の通りです。
(1)千円で何かを販売しておられる。50円は消費税分である。
(2)誰だかは判らないが、その書店の店員のお父様と関係がある。
(3)元創社の小説募集と関係がある。
(4)犬の散歩をしておられると思ったが、これは違ったようである。
 いずれも思い付きで、自信のあることではありませんが、お差支えなければ御返事をお待ちしています。気になって夜も眠れませんので―――――。
 最後の部分はちょっとオーバーである。
 翌日の朝、登校の途中で投函した。後は返事を待つばかりだ。
 それから三日後、円紫から電話があった。
 「干瓢おじさんからの返事、従兄の <下宿人> のところに来たわよ。想像はかなり当たってるんですって。それでね、御招待なの。 <12月10日の日曜日の夕方6時に、拙宅までお越し頂けないでしょうか。そこですべてを告白致します。お三方だけでも結構ですし、用心棒としてどなたか男性をお連れになっても結構です。家の場所は御存じでしたよね、エヘヘ・・> って書いてあるの。見掛けによらずふざけたところもある人みたいね。」
 もちろん行くことにした。あいにく男性の連れはいない。円紫の従兄が適任なのだが、あいにく当日は友人の結婚式の予定が入っているという。
 「なあに大丈夫だよ。相手の所在は判ってるんだし、もしそいつが殺人狂だったら、ぼくが責任持って警察に連絡して、遺体の引取りに行ってやるよ。」というのが従兄のせりふだったそうだ。


                   四

 いよいよ当日、空は晴れているが、風は冷たい。
 三人肩をすくめて、秋田家へと急ぐ。ドキドキするというほどではないが、やはり緊張感はあった。運動会のスタート前ではないが、トイレに行きたくなる。さっき済ませて来たばかりだから何も出るわけないので、我慢することに決めた。
 秋田さんの家の前に着いた。家には灯りもついていない。インタフォーンを押しても返事がない。急にドキドキして来た。何かとんでもない悪だくみに巻き込まれてしまったんじゃないかという不安が胸をよぎる。横の二人も同様らしい。
 「パン、パーン」突然激しい音が聞こえた。銃声のようにも聞こえる。
 「ウグッ」思わず声が出る。三人が顔を見合わせたとたん、家の灯りが一斉に灯いて、ハッピー・バースデイの歌声が聞こえて来た。かなりの人数のこども達が歌っているらしい。狐につままれたような気持だ。玄関の扉が開いて、奥さんらしい人が顔を出した。
 「いらっしゃい。時間ピタリね。お待ちしてましたのよ、さあどうぞ。」私の母より少し年長だろうか、ふっくらとした優しそうな人である。導かれるままに玄関を入り、スリッパを履いて次の部屋に入ると、かなり広い洋間だった。とたんに歌声が止まる。小学校の上級生くらいのこども達が二十人くらい、ひしめき合って床やソファーに坐っている。それに、初老の男性が三人。もちろん一人は干瓢おじさんである。
 「やあ、いらっしゃい。説明は後でするとして、まず、紹介しましょう。この子たちは、私たちの仲間です。この三人の娘さんは、さっき話した名探偵三人組です。私は皆さん御承知の秋田です。もと教員です。それから、これが家内です。」
 奥さんが小腰をかがめて会釈し、次の男が立ち上がる。
 「高木です。もと公務員で、今はある団体の顧問をしています。」背が低くてがっちりした体格である。 <背の低い人が高木さん> と覚えることにする。
 「丹下昭夫、もと会社員、今は毎日が日曜日です。秋田、高木とは高校の同級生です。」 三人の中では一番ハンサムだろうか。なかなかすっきりした素敵なオジサマだ。
 「お嬢さんたちの御紹介もしておこうね。このお姉さんが苦竹さん。」
 「あれ、なぜ私の名前を――――。」
 「だって、本屋さんでは名札を付けてるでしょ。もっとも、少し前までは <見習生> って名前だったけどね。後のお二人の名前は私も知らない。お手紙のお名前は、どうせ偽名でしょ。皆さん、名前覚えるのも大変でしょうから、名札を付けましょう。」
 秋田さんが、そばの棚から安全ピン付きの名札差しを取り出した。良く見ると、こどもたちは皆その名札を付けている。私たちも、出されたサインペンで名前を書いて安全ピンで胸に止めた。
 「じゃあ、続きをやろう。」どうやら秋田さんがこの場のリーダー格らしい。
 クラッカーが鳴る。私たちを脅えさせたさっきの <銃声> だ。歌の続きがはじまる。何だかわけが判らないままに、私も小さな声で唱和したが、「マイ・ディア・チルドレン」のところだけは何と歌って良いのか判らないので飛ばした。こどもたちの歌声もそこだけはバラバラらしい。歌が終わったところで、秋田さんが立ち上がった。
 「皆さんは知ってるように、今日は、高木さんの誕生日です。でも、ただの誕生日ではありません。特別な誕生日なのです。さあ、何だろう。」
 「喜寿。ついこの間、うちのおじいちゃんがやりました。」元気の良さそうな男の子が叫んだ。田中兄という名札を付けている。
 「おいおい、まだそんな歳じゃないよ。」高木さんはニコニコしながらも不満顔である。 「結婚記念日。」今度は女の子である。
 「それは誕生日と関係ないよ。」と別の男の子。
 「あの、還暦ですか。」こどもたちの声が途切れたところで、円紫が声を出した。
 「違います。もう3年前に済みました。じゃあ皆さん、今日は何年何月何日ですか。」高木さんが聞く。
 「12年12月10日」こどもたちの声が一斉に返って来る。
 「そうです。私は12年12月10日生まれなんです。」高木さんが答えた。
 「じゃあ、ゼロ歳じゃんか。」田中兄がまた叫んだ。
 「違うよ、昭和12年だよ。」別の男の子が叫ぶ。
 「そうなんだ。昭和と平成の年号が違うだけで、全く同じ年月日だから特別と言ったんだよ。多分一生に一度のことだろうしね。丹下はその誕生日をもう済ませたし、秋田は間もなくだな。」
 バースデーケーキが出て、たくさんの蝋燭を消して、食べながらのお喋りとなって、私達もすっかり座に馴染んだころ、高木さんがお皿をフォークでチンチンと叩いた。いつか洋画で見たことのあるスピーチの合図である。
 「じゃあ、今日は国語の特別の問題を出します。 <赤坂> の反対は <赤坂> です。、じゃあ <浅草> の反対は何でしょうか。」
 こどもたちは、ノートに文字を書いたりしている。私も頭の中で字を書いてみた。
 「 <あかさか> の反対なら <かさかあ> じゃないか。なんで <あかさか> の反対が <あかさか> なんだよ。」また田中兄である。私も同感だ。
 「それが問題なんだよ。」と高木さん。
 「じゃあ、ヒントを出します。この問題は、地下鉄の駅で思い付いた問題です。」
 地下鉄の駅の情景を思い浮かべる。
 「判った。」と小声で円紫が言った。
 「円道さんでも良いですよ。」と高木さんに促されて、
 「ローマ字でしょ。ですから、答えは、ええと、 <あすかさ> かな。」円紫が宙に文字を描きながら言う。
 「正解です。皆さんもローマ字習ったでしょ。ローマ字で書けばそうなるの。」
 「ずるいよ。国語の問題だとおじさん言ったでしょ。」
 「違うよ、おじさんじゃなくって先生だよ。」別の子が言う。
 ひと仕切りざわついた後、今度は丹下さんの番になったらしい。
 「じゃあ、今度は数学の問題。誰か、人生占いやってみたい人いるかな。」
 女の子が一人手を上げた。名札によれば永井さん、なかなかの美少女である。
 「じゃあ永井さん。何でも良いから、ゼロから九までの数字を一つ頭に思い浮かべて、誰にも見られないようにノートに書いて下さい。それが永井さんの運命数です。」
 丹下さんが、ちょっともったいを付けて言う。永井さんがノートに何か書き込んだ。それを覗き込もうとする子もいるが、永井さんはそれに頓着なくノートを閉じた。
 「じゃあ、永井さんの誕生日を教えて下さい。」と丹下さん。
 「10月28日です。」
「それでは、その28を頂きましょう。さっきの永井さんの書いた数字と28を合わせて二八マル。でも、これじゃ三桁で小さ過ぎるから、これをもう一度繰り返して、二八マル二八マル、これが永井さんの運命数です。この数字が、7で割り切れたら、あなたは一生お金に苦労しません。11で割り切れたら、あなたは将来素晴らしい男性に巡り会います。13で割り切れたら、あなたは、たくさんの優秀なこどもたちに恵まれます。永井さん、さっきの数は何?」
 永井さんは、ちょっぴり不安そうな表情で、ノートをこっそり開いた。またそれを覗き込もうという子がいる。
 「7です。」
 「じゃあ、二八七二八七、つまり28万7287が永井さんの運命数です。さあ、これが7と11と13で割り切れるかどうか、みんな計算してみて。」
 こどもたちは、計算をはじめた。またしても隣の子のノートを覗き込む奴がいる。
 「わあ、全部割り切れた。永井すごいな。」と真先に叫んだのは、またしても田中兄である。それだけなら良いのだが、それに続けて
 「永井は、将来いい男とジャカスカやって、ガッポガッポ子を産むんだとよ。」とは頂けない。でも、思い起こしてみると、私の小学校のころの同級生にもこんな子がいた。良くできるのだが、いつもひとこと多くて、先生に叱られたり女の子を泣かしたりする。でも、その子のこと私は嫌いじゃなかった。
 「先生、私のもやってみて。」別の女の子が言う。こどものときから、女は占い好きだ。 「もうやらない。一日一人きり。」丹下さんは毅然として言う。
 「きっと誰でも割り切れるんだよ。」という声がしたかと思うと、
 「だって、先生だって知らない数なんだよ。」と反論する子もいる。
 「私、これ知ってる。前に、仲間にやられたことあるんだ。本気で信じて損しちゃった。」耳許で囁いたのはニガである。
 「そうだよね、ニガはいまだに男と縁がないもんね。」と、これは私。それにしても不思議だ。誰でも、何でも割り切れるというのが正解のような気はするが、7とか11とか13とかというややこしい数で何でも割り切れるというのが、どうも腑に落ちない。
 「いつもだったら、ここから先は宿題にするんだが、今日はめでたい日だから特別サービスをします。そう、誰かが言ってたように、どんな数字でも割り切れます。だけど、例えば一二三四五六じゃ駄目。さっき先生の言ったのと同じようなやり方でやらなきゃね。永井さんと同じような方法で、みんなもやってみよう。」
 質問が出たり、ひと仕切りざわついたり、突然静かになったりする。
 「割れた、割れた。」という声があちこちで聞こえはじめた。
 「ね、割れるでしょ。でもその理由が判らなきゃ数学の問題にはならないね。」
 「判んないよ、教えてよ。」また田中兄である。なんとなく判ったような気もするが、正直なところ私にも正確な説明はできそうにない。
 「じゃ説明しよう。みんな、最小公倍数というのはもう習ったね。7と11と13の最小公倍数を計算してごらん。」
 頭の中での計算だけでは足りなくなって、手帳の隅っこに小さな字で計算してみた。7×11×13。答えは1001である。なるほど、同じ3桁の数字をもう一度続けて書いて6桁にすれば、片方は千の台、片方は一の台だから1001の倍数になる。1001で割れるのだから、当然その約数の7でも11でも13でも割り切れるわけだ。
 「よし、今度だれかにやってやろう」と思った。
 丹下さんの解説の後、またまた時間が流れ、今度は、秋田さんの番である。
 「じゃあ、今日の最後は理科だよ。皆さんお月様を知ってるね。月の大きさは、太陽と大体同じくらいに見えるけれど、本当は、太陽の方がずっと大きい。でも、月の方がずっと近くにあるから、同じくらいの大きさに見えるんだ。さて、ここからが問題です。じゃあ、皆さんが何かを手に持って、その手をいっぱいに伸ばして月の大きさと比べた場合、大体何と同じくらいかな。お嬢さん達も答えて良いですよ。」
 「ピンポン球くらい。」しばらく考えて、私は秋田さんにだけ聞こえるように小声で言った。秋田さんは黙ってニコニコしている。どうも違うらしい。
 「げんこつくらい」「野球のボール」「親指の爪」いろんな声が飛び交う。
 「親指の爪が一番近いかな。本当はね、意外に小さいものなんだよ。じゃ、確かめてみよう。」秋田さんはそう言うと、棚の上から小箱を取り出した。ふと覗くと50円玉がいっぱい入っている。私としたことが、肝腎の50円玉のことをすっかり忘れていた。秋田さんは50円玉をみんなに一つずつ配った。
 「じゃあ、その50円玉を持った手をいっぱいに伸ばして、月の大きさと比べてみよう。ちょうど、今夜は満月に近いしね。」
 ぞろぞろと外に出て、一斉に月に向かって手を伸ばした。月は明るく輝いている。
 「先生違うよ。月の方がずっと小さいよ。」誰の声かは判らないが、男の子だ。
 「そうじゃないよ。50円玉じゃなくて、その穴の方だよ。」と秋田さんが言った。
 改めて50円玉を月に翳す。確かに穴にピッタリだ。50円玉の穴を通して、明るい月の光が、私の目に射し込む。
 「ね、ピッタリだろ。ぼくたちの思い込みというのか、錯覚というのか、月は思ったよりずっと小さく見えてるものなんだね。ここで一つ注意。太陽に向かって同じことをやっちゃいけないよ。絶対にいけないよ。目を悪くしてしまうからね。」
 また家の中に戻り、しばらくしてこども達は帰って行った。
 「皆さんとの話はこれからだから、まだ残ってくれますね。」と秋田さんが言う。
 「もちろんです。」三人は一斉に答えた。


                  五

 「お待たせしました。これからが皆さんとの本題ですね。お酒でも飲みながら、ゆっくりやりましょう。」秋田さんがうなずくと奥さんが立ち上がって、お盆にチーズやサンドイッチなどのおつまみとウイスキー、ビール、それにワインを乗せて入って来た。現金なもので、とたんに空腹を感じる。もう、いつもの夕食の時間はとっくに過ぎている。
 「事件についての皆さんの答えは、大体正解でした。今日のクイズ問題も、実は50円玉事件と多少は関係ある特別メニューなんですよ。」秋田さんの話は続く。
 「まず、苦竹さんのお父さんと関係ありというのは正解です。私達三人は、高校の同級生です。高校のころから仲良しだったし、同じ東京暮らしで家も割に近かったので、よく集まって一緒に酒を飲んだりしていました。実はもう一人、西中さんという仲間がいましてね。その西中が苦竹さんのお父さんと大学時代の友人で、お父さんから、お嬢さんの観察を頼まれてたんです。ところが、西中の住まいは結構遠い。そこで、彼から頼まれて家の近いわれわれが本屋さんに通ってたんです。」
 「西中さんなら知っています。父と年賀状の交換してるみたいだし、以前父と一緒にお会いしたこともあるんです。カラオケのお上手な楽しい方。」
 「お会いになりましたか、そうでしたか。」と今度は丹下さんが話を引き取る。
 「両替は無理にしなくても良いんだけど、お嬢さんの観察を兼ねてということで、その役は一番近くに住んでて一番心臓の強い秋田の役。ほかの二人も時々、お店を覗いてはいたんですよ。二人もこの近所じゃあるけれど、練馬駅より隣の駅の方がずっと近いんで、練馬駅前にはあんまり出ないんです。秋田が両替だけで本を買わなかったのはね、彼の親戚がやってる本屋さんが近所にあって、彼、義理立てしてそこで買ってるんですよ。」
 話はまた秋田さんに戻る。
 「犬の件も正解です。近所の知り合いが病気になりましてね、犬の散歩を頼まれたんです。その人もすっかり良くなったんで、犬の散歩は打ち切りになりました。」
 三人のおじさまたちのお話と私たちとの対話は、延々と続くのだが、途中の話を要約すれば、次のようなことだ。
――――三人とも六十を過ぎ、仕事も暇になったんで、一種のボランティアとでも言うのかな、近所のこどもたちの勉強を、三人で手分けして見てやることにしたんです。そうは言っても、私立中学の受験のお手伝いなどは、責任が重くてとてもボランティアじゃ勤まりません。ですから、どちらかと言えば勉強の遅れがちなこどもたちに、じっくり基礎を付けてやりたいという趣旨でやってるんです。
――――秋田の奥さんの実家はこのあたりの資産家で、奥さんの実家の土地にうまいこと建てて貰った秋田の家が一番広いもんだから、教室は秋田の家になりました。
――――いつも今日みたいなことをやってるわけじゃありませんよ。今日は特別。高木の誕生日だし、それに素晴らしいゲストもお見えだし、ちょっとしたデモンストレーションをやらせて頂いたんです。
――――月謝はタダでも良いんですが、それじゃ親御さんたちがかえって気を使うし、それに教材やおやつで、結構コストも掛かるんで、週ごとに1050円ずつ、金曜日に頂いてるんです。都合でお休みの子も多いので、出席の週だけということで、月謝じゃなくて週謝にしてるんですよ。結構親御さんたちは喜んでくれているようです。
 「なぜ1050円なんですか。」と私が聞いた。
 「御指摘の通り、50円は消費税相当額です。もっとも、この程度の塾じゃ消費税は関係ないんですが、ちょっと格好をつけてね。年寄りの遊び心もあります。それと、もう一つ、講師は我々三人ですからね。これは、今日のクイズがヒントにもなってるんですよ。つまり公倍数というのか――――。」秋田さんが答えた。円紫は手帳を出して計算している。
 「判りました――――と言って良いのかどうか判らないんですが、1050は、7×5×5×3×2です。それと関係あるんですね。」
 「その通りです。お遊びみたいなこだわりなんですけれど、収入は三人で正確に平等に分けようということにしました。そうなると、三の倍数でないと困ります。実は、同じような仲間で希望者が何人かいましてね、生徒の数も増えたし、この教室の先生の数も五人か六人か七人に増えるかも知れないんです。1050円なら、どの場合でも割り切れるでしょ。これが、消費税以外の隠れた理由なんですよ。」
 この答えには、私としても納得せざるを得ない。
 ほかにもいろんなやりとりがあった後、高木さんが言った。
 「元創社の話は、お手紙頂くまで知りませんでした。いやあ、お手紙で教えられてびっくりしたなあ。でもそういうことなら、今度のことをテーマに書いて、応募してみようかな。主人公は皆さんのうちの誰かにして。書けたら、その方に検閲して頂きますよ。」
 夜もすっかり遅くなった。私たち三人は、何だかあったかい気持で秋田邸を後にした。空が冴えて、月も星もきれいだ。幼いころ父や母と一緒に月を見ながら散歩したことを思い出して、ちょっぴり感傷的な気分になったりする。
 「元創社の募集のこと知らないなんて嘘だよね。なにせ六十男はしたたかだもん。」円紫が言う。
 「でもオジサマたち、結構可愛いかったじゃない。」とニガの声がした。

 
              エピローグ

 それから何日かの間に、高木さんから取材らしき電話を二回ほど頂いた。ほかの二人にも電話があったらしい。それからまたしばらくして、高木さんから部厚い原稿が届いた。実は、ここまでの文章は、その高木さんの原稿そのものなのである。
 私の心象風景や私達三人だけの会話のところなどはもちろんかなりの間違いもあるが、小説として見れば、大筋としては大体こんなもんだろう。私と父との中学生時分の対話に至っては、全くの高木さんの創作だが、なるほどと思える節もある。もう一つ、私だけ、トイレのことが二回も出て来るのは全く気に入らないが、栄光のヒロインに抜擢されたんだから諦めるとするか。何と言っても、おじさまの感覚で書いた小説だから、私の感覚に合わないところはいろいろある。まあ、これまたやむを得ないのかなとも思う。
 高木さんの原稿には、秋田さんからの手紙も添えられていた。
――――小説の中身読みました。なぜ私が愛想の悪い干瓢おじさんなのかは異論ありですが、あそうか、これは高木が書いたものだから、あなたには責任はありませんね。少し頭が混乱してしまいました。
 ところで、先日は時間の都合もあってお話しできませんでしたが、ななみさんの職場に通ったのは、お父上の依頼があったからだけではありません。きっかけはもちろんお父上と西中ですが、私達三人ともいつの間にか、ななみさんのファンになってしまったのです。ななみさんが不審に思われたのも当然で、途中からはむしろ、ななみさんの興味を惹いて反応を見てみたいという気持が働いて来たんです。そして、年甲斐もなく、ななみさんとお近づきになるきっかけを作りたいという気持を抱いたことも否定できません。また、お友達のお二人も、さすがにななみさんの御友人だけのことはあると感心しました。
 そこで御相談なのですが、もし御迷惑でなければ、これからも父親代わりというか、ずっと年上の友人として、たまには飯でもお付合い頂けませんでしょうか。もはや人畜無害の年寄り達ですが、若いお嬢さんたちとお話しする機会を持つことは、私どもにとって、とても嬉しいことです。定年とともにそのような機会も減りましたしね。援助交際やストーカーではありませんが、食事代くらいはもちろん私どもで負担させて頂きます。
 そこで気が早いのですが、もし御承知頂けるのなら、名前を付けた会にしたい。会の名前は「苦竹会」でどうかと思っています。その理由の第一は、言うまでなく苦竹ななみさんという主役の存在ですが、もう一つ大きな理由があります。ヒントは、赤坂と浅草です。ぜひお考え下さい――――。
 会を作ることに、私には異論はない。早速またまた三人が例の喫茶店に集まった。嬉しいことに、ほかの二人も会の結成には賛成だった。
 「でも、 <苦竹会> のもう一つの理由って何だろう。」とニガが言う。
 「赤坂と浅草ねえ。」と言いながら、円紫が手帳を取り出した。何か書いている。
 「判った。これこれ。」しばらくして彼女が示したのは、NIGATAKEというローマ字である。
 「これアナグラムっていう遊びなのよ。NIGATAKEの順序を変えるでしょ。AKITA・GEN、ほら秋田元よ。次にTAKAGI・EN、高木さんの名前はたしか園造でしょ。TANGE・AKI、丹下昭夫さんよ。みんな <苦竹> のアナグラムなのよ。」
 これには驚いた。偶然というには素晴らし過ぎる。オーバーに言えば、神の摂理とでも言うべきか。その神はきっと <苦竹ななみ> という名の若き美しき女神だ。
 「じゃあ、オーケーでいいわね。返事は私書く。」私は少々興奮状態で叫んだ。
 その夜、秋田さんに手紙を書いた。御馳走になることには大賛成だということと円紫の名回答を書いたことはもちろんだが、その後に少しばかり書き足した。
――――先日はおじさま方の出身地をお聞きするのを忘れていましたが、私は皆様の御出身は <ニイガタケン> だという確信を、いまや抱くに至っております。――――
 高木さんにも手紙を書いた。
――――この間頂いた原稿には題名が付いていませんでしたが、あの夜の月がとても素晴らしかったので、「月と30ペンス」と名付けてはいかがでしょうか。ほんの思い付きですから、おじさまの御判断にお任せ致しますが。もちろんモームの作品のもじりです。今の為替レートだと、50円は大体30ペンスくらいに相当するようです。――――