演歌とポップス

 例によって、スペース・マガジン2月号に掲載したものを転載する。
 実は、大チョンボをやってしまった。同誌の御了解を頂いて、「愚想管見」を同誌掲載の後にこのブログに転載しているのだが、同誌3月号用に送付した原稿を、うっかり2月号の原稿だと錯覚して、去る2月13日の本ブログに転載してしまった。後になって気付いて、あわてて削除し、「2月号掲載」の本稿を、あらためて転載する。
 このブログが、同誌の読者の方のお目に留まらず、お叱りを蒙らないことを念ずるのみである。


[愚想管見] 演歌とポップス                   西中眞二郎

 何だかんだと言いながら、昨年の大晦日紅白歌合戦で時間を過ごした。このところ毎年の感想だが、私の知らない歌が実に多い。歌どころか、歌手にも知らない人が多いし、いわゆるポップス系の歌ともなると、どの歌もみな同じように聞こえてしまう。
 娘がまだ結婚前で我が家にいた頃にそんな感想を言ったら、「私は逆だよ。演歌がみんな同じ節に聞こえてしまう。」との反応が返って来た。言われてみれば判らないでもない。ひところカラオケに熱心だった頃、「知らない演歌を歌う」というのが、私の得意技のひとつだった。伴奏を大きめにかけて、わずかに遅れて歌うと、たいていの演歌になら何とかついて行ける。つまり、メロディーに個性が少なく、同じようなパターンのメロディーの蒸し返しが多いので、そのような小細工が可能なのかと思う。
 他方、「演歌はメロディーで聞くが、ポップスはリズムで感じる」という話を以前聞いた記憶もあるが、あるいはそんな面もあるのかも知れない。世代間の断絶が言われて久しいが、歌の世界での断絶が一番はっきりしているのではないか。若い人とそうでない人との間では、音楽の好みだけではなく、音感や反応のしかたまで変わって来たようにも思える。いまの若い人たちの将来の「懐メロ」は、一体どんな歌になるのだろうか。
 ポップス系の歌を聞いていると、ハーモニーやリズムなど、音楽的には演歌より高度なものが多いような気もするし、判らないなりに、ましてや歌えないなりに、「立派な音楽だ」という気がするものも少なくないことは事実だ。しかし、その歌詞は、どうも「詩」とは到底言えないものが多いような気がする。演歌の歌詞には多かれ少なかれ「詩心」や技巧を感じるが、ポップスの場合、言いたいことを言っているだけで、およそ「詩」とは言えないものが多いような気がする。もっとも、「何が詩なのか」ということになると、それは人によって異なって来るものなのかも知れないが。
 もう一つ、ポップスの歌詞は、やたらに前途に明るい希望を抱いているものが多いようだ。演歌は、恋歌にしても失恋の歌が多く、概して人生の翳りを歌ったものが多い。それに引き換えポップスは、「明日はきっと良いことがある」「あなたを一生愛する」「あなたに会えてよかった」「みんなで頑張ろう」・・・正確な歌詞ではないが、世間の暗さや未来への不安より、明るさや希望を強調しているものが多いような気がする。もっと露骨に言えば、「閉塞感のある現在の社会」から目を背けて、悩みを持たず、能天気に明日を信じているものが多いように思えてならない。それが悪いとは言わないが、社会に対する不満や、批判精神にもつながる「暗さ」や「弱さ」がそこには欠けているような気がしないでもない。
 楽観的なことは悪いことではないし、それを一方的に批判する積りはないが、こじつけを承知で言えば、最近における「若年層の保守化、国粋化」と無縁とも言えないような気がしないでもない。「やたらに明るく、懐疑心を持たず、前途に希望を抱き、積極的にものごとに立ち向かって行く」前向きな歌の典型が、校歌・社歌の類と軍歌である。ポップスから軍歌を連想するのは考え過ごしだとは思いつつも、そんな感想を抱きながら、年末の紅白を聞いていた。                (スペース・マガジン2月号所載)