私の文章読本――日本語雑記帳補遺

 この13日に勝手なPRをさせて頂いた「日本語雑記帳」が、やっと刊行され、昨日私の手許に届いた。目下のところ、限られた知己への発送等で忙しくしている。本屋さんで入手可能になるには、まだもう少し時間が掛かるのかも知れない。ところで、勝手ついでに、もう一つ厚かましい雑文を御披露させて頂きたい。実は、「日本語雑記帳」の一部に入れようかと思って整理した文章だったのだが、入れてみるとどうも坐りが良くないし、うまく嵌ってくれないので、編集者の意見もあって粗著に入れなかったものである。



 私の文章読本


 ここまで(注:「日本語雑記帳」の関係部分で。以下も同様。)いろいろな「悪文」の例を、私なりに整理して列挙してみた。その中で、文章の直し方もいくつかお示しした積りだが、それの整理も兼ねて、文章を書くに当たって私が心掛けていることを、思いつくまま、かつ、順不同ではあるが、簡単にまとめてみることにしたい。例示は既に済んでいるという積りなので、ここでは例示などは原則として省略した。
 申し上げるまでもなく、私が名文家だなどという積りでは決してない。ただ、長年にわたって実務的な文章を書いたり、直したりして来た実務家の素朴な体験談だと御理解頂きたい。

1 誤字・脱字を避ける

 当たり前の話である。誤字・脱字があると、たとえ中身が立派な文章でも、その中身まで怪しげなもののように見え、値打ちを下げてしまう。そのためには、注意深く書くことは当然だが、「他人に見て貰う」ことも有効な手段だと思う。

 それともう一つ、パソコンの変換ミスに要注意ということだ。「パソコンのお蔭で字を覚えなくなった」ということをよく耳にするが、私はそうは思わない。むしろ、自分では書けない字でもパソコンなら書けるわけだから、うまく使えば、かえって漢字力の向上が期待できると思う。
 ところが、手書きの場合なら当然のことながら自分の知らない字は書けないわけだから、辞書で調べない限り「かな」で書くしかないわけだが、パソコンの場合キーを叩くだけで字が出て来るので、間違った用例のままで印刷してしまうというケースがよく出て来る。この点要注意であり、特に、ニュアンスの似た字の場合など、ついつい間違いを見過ごす場合が多い。
 それに、私の場合、パソコン画面で十分チェックした積りでも、紙面に印刷するとミスが見つかるというケースがよくある。紙文化で育った活字世代のせいで、紙上の印刷物でないと精神集中してチェックできないのかも知れない。

2 なるべく短い、単純な構造の文章にする

 これも当然のことだと思う。学生時代に、志賀直哉の文は簡潔な文章の典型であり、谷崎潤一郎の文章は息の長い文章の典型だといった話を聞いた記憶があるが、ここでは文豪の文章論をやろうというわけではない。あくまでも、実務的な文章の話だ。長い文になると、どうしても構造が複雑になり、論理的におかしいところが出て来たり、そうでなくても読みにくい文章になったりしてしまう。
 したがって、できることなら長い文章を避けて、短い文章に切る方がベターだと思うし、たいていの場合は、それが可能だと思う。そうは言ってもどうしても長くならざるを得ないケースもあるだろうが、その場合には、以下のような考え方が参考になるのではないかと思う。

3 パラレル構造に配慮する

 パラレル構造のことは、先に書いたが(注:「日本語雑記帳」の関係部分で)、要するにバランスの取れた文章ということだ。法令等で、「Aの場合は○○、Bの場合は△△、Cの場合は××」といった表現に良くお目に掛かるが、名文かどうかは別として、これが私の言うパラレル構造である。かなりややこしい文章でも、この例で言えば、「場合」と「、」の対応で、比較的読みやすい文章になる。
 その場合、その構造がパラレルになっていることが読者に伝わることが必要だろう。そのためには、言葉の対応関係に注意するとともに、「、」を構造の要所のみに使って、不必要に使わないことが大事だと思う。特に、長い複雑な文章の場合、文章の構造上の切れ目以外には、「、」を多用しない方がかえって読みやすい場合が多いような気がする。

4 言葉の順序を入れ換えてみる

 これも説明を要しないと思う。「美しい和子さんと啓子さん」だと啓子さんが美しいのかどうか判らないが、もしそうでない場合なら「啓子さんと美しい和子さん」とすれば、名文かどうかは別として、誤解は避けられる。
 もっと複雑な場合でも、言葉や文章の順序を変えてみるとずっと判りやすくなるケースがよくある。

5 漢字を活用する

 常用漢字でなくても、よほど特殊なものでなければ、漢字を使った方が判りやすいケースが多いように思う。前に書いたように、漢字は一目で理解できるし、漢字を使うことによって同音異義を避けることもできる。
 前にも書いたように、「中でも」とか「その上」といった場合に、「なかでも」、「そのうえ」と表記する主義の刊行物があるが、私はこれには反対である。この場合、読みにくいだけでなく、どうも文章表現に締まりがなくなるような気がする。

6 文章の構造を見直してみる

 言葉の順序の問題の延長線上の問題かも知れないし、長い文章を複数の文章に切ってみるということもその中に含まれるかも知れない。読みにくい文章というものは、多くの場合文章の構造に問題があると思う。例えば、長い文章の前段と後段を入れ換えることによって、読みやすくなるケースもあるような気がするし、もっと小さいことで言えば、主語の位置を変えてみるとか、形容詞的な修飾語を副詞的な修飾語に変えてみるといった方法が使える場合もあるかと思う。

7 枝葉を落として見直してみる

 書いてみてどうもおかしいと思いつつも、どこがおかしいのかよく判らないといったことがときどき生じる。そんなとき、文章の形容句などの枝葉を落として、幹だけにして読み直してみると、おかしさの原因がはっきりする場合がある。枝葉は、文章の構造がはっきりしてから付けて行けば良い。

 以上は、いわば文章自体の問題なのだが、それ以外の「作文の戦略」とでも言えそうなものを、私のこれまでの体験から思い付くままに、少し書き加えておきたい。

8 書きたいことを書く

 当然のことだが、いくら名文でも、自分の言いたいことが十分表現されていないのでは、文章を書く意味がない。「書きたいこと」がややこしいことの場合には、文章もややこしいことになってしまう。できれば、ややこしいことは避けたいものだ。したがって、一番の原点に戻れば、文章を書く前にまず内容を良く整理して、「ややこしさ」を避けるのがスタートかも知れない。
 そうは言っても、ややこしさを避けられない場合も当然出て来る。
 若手の課長だったころ内閣法制局という役所に出向して、法律案や政令案の審査に4年余り従事したことがある。法令の文章というのは、よく悪文の典型として挙げられるが、かつての担当者として弁解すれば、法令の場合、どうしてもまず正確さが要求される。
 よく言われる例に、「金魚の水を換える」という言葉がある。日常会話としてはこれで十分だが、細かく、かつ、正確に言えば、「金魚の水」というのは一体何のことなのか、「水を換える」というのは何のことなのかといった疑問の余地がないわけでもない。したがって、この内容を法令に書くとすれば、「現在金魚を入れている容器に入っている水を捨てて、新しい概ね同量の水を当該容器に入れる」といったところになるのだろう。明らかにこれは悪文だが、紛らわしさを避けるという法令文の宿命なのかも知れない。もちろん、判りやすいということが第2の要請だ。ややもすれば対立する「正確さ」と「判りやすさ」という二つの課題をいかに両立させるかというのが、法制局参事官の腕の見せどころの一つだという面もあると思う。

 法令であれ何であれ、文章以前の問題として、内容自体が単純明快であることが望ましいことは言うまでもない。法制局の話をもう少し続けると、各省庁からややこしい内容の法令の案が示されたときまず検討すべきことの一つは、内容自体をもっとすっきりしたものにできないのかという点だった。そのように内容を整理できたケースもあったが、さまざまな事情、特にこれだけ複雑化した社会・経済に対応するためには、内容がややこしくならざるを得ないという場合が多いわけだし、そうなると、そのややこしい内容をいかに正確に判りやすく表現するかということが、次の課題になって来る。
 
 話が少々横道にそれたかも知れないが、ややこしいことを書かざるを得ないというのが、文章論のスタートになると言っても良いのだろう。ややこしいからと言って、それを避けてしまったのでは、自分の言いたいことは伝わらない。

9 自分で書く

 当たり前のことのようだが、仕事上の文章の場合、他人に書いて貰う、あるいは、他人から相談を受けて文章を直すといったケースが非常に多いということは、皆様の体験を通じても明らかだろう。もちろん、そうせざるを得ない場合が大半だろうが、私は、時間的、能力的に余裕があるときには、なるべく自分で文章を書くようにしていた。もちろん、単純で定型的な文章の場合などは別だが、複雑な内容のものや、少しでも自分の個性を出したいときなどは、可能な限り自分で書くようにして来た。

 他人の書いた文章は、その他人の個性が出て来る。思考や論理の構造も、その人のものになりがちだ。それで良い場合ももちろんあるが、それを自分の個性や構造に直そうとするのは、なかなかむずかしい。「直し」はどうしても原文に引きずられてしまうし、ボールペンで真っ赤になるまで直しても気に入った文章にならないというのは、よく経験することだ。こんなことなら、はじめから自分で書けば良かったと思うケースも珍しくない。
 ある程度のポストに就いて以降の話だが、私がよく使っていた手は、自分で書いて、他人、それもできれば複数の他人に見て貰う、あるいは手を入れて貰うという方法だった。細かいデータや詳細な例などを調べるのは億劫な場合がよくある。このようなときは、文章のあらすじだけ自分で書いて、「おかしいところや、まずいところ、間違いなどがあったら直してくれ。それから、こことこことはデータや例示が不足なので、補足してくれ。」といった注文を出して、職員に見て貰うということを、必要に応じてやっていた。はじめのころは、「会長の書いた文章を直すのは、どうも気が引ける」といった反応もあったようだが、職員も次第に慣れて来たようで、時には、細かい表現のミスや誤字まで直してくれるようになった。

10 パソコンで書く

 パソコン(又はワープロ)というのは便利なものだ。パソコンの便利さを今更説明する必要もないだろうが、複雑でかなりの分量に及ぶ原稿を書いたりする場合、まず迷うのは、どのような構成にして、何から書き出そうかということだと思う。紙に書いた場合、後で構成を変えることなどなかなか困難だが、パソコンの場合、順序を変えることなど簡単だし、書きたいことを順に書いて行って、あとで見直して整理すれば良いという大きな利点がある。
 ある程度の年配の方の場合、手書きで原稿を書いた後に、パソコンで部下に清書をして貰う方も多いようだが、私の場合、むしろ逆だった。例えば、手書きでないとまずい手紙の場合などでも、それがかなりややこしい内容で、長さもかなりのものになる場合など、まずパソコンで原稿を書き、それを推敲した上で、便箋に清書するといった方法を採ることも時折ある。もちろん、そこまで手間を掛けずにパソコンのままで利用することの方が遙かに多いのは事実だが。
 ただし、私の場合、パソコン利用の弊害もある。と言うのは、あまりにパソコンに頼り過ぎているために、ちょっとややこしい文章を書こうというときに手許にパソコンがないと、文章を書くのがとても億劫になってしまうということである。

 なお、これは半ば雑談だが、「酔って書き、醒めて直す」という方法を愛用した時期もある。まだワープロやパソコンがなかった時代だが、なかなか文章の構成や書き出しが決まらない。そんなとき、少しアルコールが入っていると、細かいことが気にならなくなって、大胆に思い切って筆を執ることができる。もちろん、それだけでは困るので、酔いが醒めた後、冷静にチェックする必要があることは当然だが。

11 他人に見て貰う

 前にも書いたが、私は自分の書いたものは、原則として他人に見て貰うことにしている。間違いのチェックや内容を補完して貰うための場合もあるが、それよりも一般的に期待しているのは、私の独りよがりの論理や文章になって、判りにくいところや、おかしいところがないかどうかのチェックである。
 仕事の上での文書の場合は内部の職員にお願いしていたことはもちろんだが、プライベートな手紙や文章などの場合は、家内に見て貰っているのが通常だ。専門的な内容のチェック等の場合はもちろん専門家に見て貰う必要があるが、そうでない場合には、専門家でない人に見て貰う方がかえってベターだと思う。というのは、専門家の場合、素人にとって判りやすいかどうかという物差しを持っているとは限らないし、それに加えて、書き手たる私と同じ論理構造を持って、私と同じような独りよがりをしてしまう可能性があるからである。パソコンの説明書などが判りにくいのは、そのような理由もあるのではないだろうか。

12 読み合わせは素人に

 正確を期する必要のある文書の場合には、良く読み合わせをするが、この場合、読み手はともかく聞き手の方は、その問題に精通した専門家あるいは担当者でない方が良いような気がする。
 内閣法制局時代の経験だが、法令の場合、原稿に間違いがあったりしたら大変だから、国会提出の最終原稿等は、綿密な読み合わせを行う。私の場合、仕事の相手は主として通産省の職員だったが、読み合わせの相手は、可能な限り、担当職員以外の職員に頼むようにしていた。と言うのは、担当者はその問題に首を突っ込み、その問題に精通しているだけに、間違った字や文章でも、自分の頭の中で正しく読み直してしまう可能性があるからである。他人の書いた文章の間違いは気が付くが、自分の文章の間違いには気が付きにくいという面もあるだろう。もちろん、読み合わせの相手が、常識を持ち、ある程度日本語に明るい人でなければならないことは当然だが。

13 辞書を引く

 当然の話だが、文章を書く上で必要な心掛けだと思う。私の場合、割に早熟な少年で、しかも国語に割に強かったので、学生時分、現代語の辞書を引いた経験はあまりなかった。
 そのためか、一人前のおとなになってから、字形や意味などについて初歩的な誤解をしていたことに、ときどき気付くことがあった。むしろ最近の方が真面目に辞書を引いているような気がする。辞書を引けば、その言葉だけではなく、ついついその周辺の言葉を読んでしまったりして、新しい発見をすることもよくある。
 国語の学力に関して言えば、還暦を過ぎてから多少の進歩があったような気もしているが、これは最近割によく辞書を引いていることのお蔭かも知れないと思ったりしている。

14 過不足のない文章を

 「一を聞いて十を知る」という言葉がある。「聞く」ときはそれで良いだろうが、「書く」ときや「話す」ときは、決して好ましいことではないような気がする。
 「文章」の場合よりは「会話」の場合に多いことかも知れないが、何か質問をした際、過剰な答えが返って来るケースがよくある。例えば、今日ある人に同僚が電話を掛けることになっていたとしよう。その日の夕方、私がその同僚に「電話してくれた?」と尋ねた場合の応答である。最低限の答えは「掛けました」、あるいは「掛けなかった」だけでも良いと思うのだが、それではあまりにも素気ないという気もする。例えば、「掛けたけれど、留守だった。今夜また掛けてみます。」これで十分だろう。ところが、このような場合に往々にしてよくあるケースだが、掛けたときの状況をこまごまと説明する人が多いような気がする。
 詳しいことを知りたければ、私の問題意識に応じて、「何時ごろ掛けたのか」、「相手の反応はどうだったか」等々、私は更に追加して質問するだろう。細かい説明はそれからで良いのだと思う。
 例えば、「もしまだ掛けていないのだったら、掛けるときに○○についてもついでに聞いておいて欲しい」ということが、私の質問の動機なのかも知れない。その場合に掛けたときの様子や、あるいは掛けられなかった理由を長々と説明されても、私にとっては無用の長物である。「一の質問」に対して「十の答」をすることは、適当でない場合が多いと思う。

 電話のときよく経験することなのだが、「○○さんおられますか」、「少々お待ち下さい」で、待てど暮らせど応答がなく、聞こえて来るのは「乙女の祈り」のメロディーばかり。これは困る。多分相手は親切に○○さんを探してくれているのだろうが、こちらにしてみれば、そこまで期待していないことも多い。
 「○○はただいま席を外しておりますが、近くにいると思いますので、探して参りましょうか」と聞いてくれればベストだ。これなら、こちらも「お願いします」あるいは「じゃあ別に急ぎませんからまたお電話します」あるいは「じゃあ、△△と御伝言下さい」等々適切な対応ができる。そうでないと、気ばかり焦りながら、「乙女の祈り」のメロディーを聞くばかりということになり兼ねない。

 以上は会話や電話の話なので、文章と直接の関係はないかも知れないが、全く無関係というわけでもないと思う。文章を書くときの心掛けとして、頭の片隅に入れておいても良いことではないだろうか。