「なるほど短歌」(覚めてより・・・・)

 角川書店の「短歌」(平成17年3月号)に、私の作品が引用されていることに、ごく最近気が付いた。
 『ポンと膝を打つ、「クスッ」と笑える、人生が見える・・・「なるほど短歌」を読む』との特集で、穂村弘さんほか数人の歌人の方が、それぞれエッセイを書いておられる。私の歌が紹介されているのは、その冒頭の「やさしい鮫」というタイトルの穂村弘さんのものである。以下、私の作品に関係する部分のみ抜粋しておこう。

 
            やさしい鮫  穂村弘
 

 特集「なるほど短歌」ということで編集部から依頼を受けた。そんな短歌があるのか、と不思議に思ったが、依頼状によると以下のような歌のことらしい。

 
 この鯛は無病息災に生きてこしにこうしてわれの口に入りたる  沖なおも
 覚めてより耳に離れぬ唄のありそがまた実に下らぬ唄にて  西中真二郎


 一読、なるほど、と思って、それから、なるほど「なるほど短歌」か、と改めて思う。
 引用歌には、「このようにポンと膝を打つような、そこから人生の真髄がのぞけてくる歌があります。肩肘張らず、こうした歌を楽しんで読みかつ詠んでみようという企画です」という説明が付されている。そういう切り口で短歌をみたことがなかったので、今回、「なるほど短歌」について自分なりに考えてみたいと思う。
 「なるほど」とは何かと云えば、瞬間的な共感と納得の言葉だろう。だが、「ポンと膝をうつ」ためには、そこにもうひとつ、意外性という要素が重要になってくるのではないか。
 例えば、さきの例歌が、(中略)だったらどうだろう。これでは当たり前すぎて「なるほど」にはならない。(中略)
 また同様に、

 覚めてより耳に離れぬ唄のありそはかのときの思い出の唄  非なるほど的改作例

だったらどうか。こちらも理屈通りでありすぎて、「ポンと膝をうつ」ことはできない。「実に下らぬ唄」が「耳に離れぬ」という意外さのなかにこそ、万人の共感を誘う「なるほど」性があるわけだ。
 以上のような読みから、「なるほど短歌」が「なるほど短歌」として成立するためには、認識や経験の提示のなかにある種の意外性や発見を含んでいることが必要になるのではないかと思われる。(後略)
(西中注:「やさしい鮫」というタイトルは、後の方に出てくる松村正直さんの作品で使われている言葉)
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 冒頭に「ごく最近気が付いた」と書いたのだが、気が付いたのはほんの数日前である。
 この私の作品は、平成15年に刊行した私の歌集「春の道」所載のものなのだが、一昨年8月に、朝日新聞朝刊で大岡信さんが選歌しておられる「折々のうた」に紹介され、その後昨年秋「新・折々のうた8・大岡信著」として発行された岩波新書にも転載されているものなのだが、「短歌」に引用されていることには全く気付かなかった。以下、なぜ今頃になって気付いたのかという顛末に触れておきたい。

 
 パソコンをおやりの方は御経験のある場合が多いと思うが、私も時折、インターネットで私の姓名「西中眞二郎」を検索してみたりしている。ところが私の場合、印刷物(朝日新聞の「折々のうた」も含め)や各種の文章で、新字体の「真二郎」という文字が使われていることも多い。「西中眞二郎」で検索してもこれは出て来ない。そこで、稀に「西中真二郎」でも検索してみたりしているのだが、数日前、その結果、見慣れないブログに行き当った。「閑客手控帖」というタイトルで、「閑客」という名前の方が作っておられるブログである。その中に、「耳に離れぬ唄のあり・・・」というタイトルで、私の作品が引用されていた。その趣旨は、明治時代の古い歌の「水師営の会見」という歌が、起きたときから耳から離れないというものであり、続いて私の歌が引用されており、「今日の老生にぴったりの一首だ」とある。前後からすると、多分私より年長の方だろうと思う。
 早速、そのブログにお礼のコメントを書いたところ、「閑客」さんから御返事があり、それによれば、「雑誌短歌の特集」で御覧になったものだという。それまで、私はてっきり、朝日新聞岩波新書で御覧になったものだとばかり思っていたのだが、「短歌」に載っていたというのは、私にとっては新発見である。早速近くの図書館に行って、「短歌」の今年のバックナンバーを調べてみたが、それらしいものは見当たらない。
 そこで「閑客」さんのブログに再度コメントし、「もう少し詳しくお教え頂きたい」旨のお願いをした結果、「昨年3月の特集」だということをお教え頂いた。早速近くの図書館に問い合わせたところ、「去年のものはもう当館にはないので、ほかの図書館から取り寄せる」ということで数日待ちとなり、今日雨の中を図書館まで足を運んで、はじめて目にしたというのが、ことの経緯である。
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 「短歌」とは、私は古い馴染みである。いまから50年くらい前、高校生から大学生のころ、「短歌」には随分投稿したし、上位入選したものもいくつかあった。このところ御無沙汰続きだが、私にとっては「青春の記憶」に繋がる雑誌である。その「短歌」に専門歌人の歌と並んで、独立した「作品」として紹介されたことは嬉しいことだし、また、「なるほど短歌」という切り口から、その代表例として挙げられたということも、嬉しいことである。
 「なるほど短歌」という言葉は、私もはじめて耳にした言葉だが、「なるほど、そうかも知れないな」とあらためて感じているところでもある。そう言えば、出来の良し悪しは別として、私の短歌には「なるほど短歌」らしきものが多いのかと思わないでもない。例えば、同じ「春の道」に載せたものだが、「乗り換えて向かいの電車に乗りたれば同じ配置で広告下がる」、「手帳一つ机に残し手洗いに立てば背広の意外に軽き」といった作品なども、意外性は少ないかも知れないが、一種の「なるほど短歌」なのだろう。
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 作者たる私が全く知らないところで、私の作品が一人歩きをしているということにちょっとびっくりもしたし、「自分のこどもが、親の知らないところで一人立ちをした」という嬉しさも味わっているところだ。
 それにしても、この「新発見」には、いくつかの偶然が重なっていると思う。列挙すれば、
① 「閑客」さんがこの作品に関心を持たれ、そのブログに作者名入りで引用されたこと。② 私がそれに気付いてお礼のコメントを入れたこと。③ 「閑客」さんがそれに御返事を下さり、その中で「雑誌短歌」だという出典を明示されたこと。なお、私には思いも寄らなかったことなので、「閑客」さんが何もおっしゃらなければ、私は「朝日」か「岩波」で御覧になったのだろうと思い込んでいたに違いない。(これまで、2人の方のブログでこの作品が引用されていたこともあるが、いずれも朝日新聞を御覧になってのものだった。)④ 更に、私が厚かましくも「詳しく」とのお願いをし、「閑客」さんが快くそれに応じて下さったこと―――この連鎖がどこかで断ち切れていれば、「短歌」の記事のことは、私は永久に気付かないままに過ぎてしまったに違いない。そういった意味も含めて、「閑客」さんには心からお礼を申し上げたいし、ブログを通しての「出逢い」の不思議さといったことも痛感しているところである。
 今日の私は、その「出逢い」、そして自分の知らなかった「こども」との対面に、いささか興奮状態である。このブログを御覧になる皆様からすれば、「それがどうした・・・」ということなのかも知れないと思いながらも、ちょっとした感慨にふけりつつ、一文をものしたところだ。