ヒットラーの台頭と現在の日本

 「ヒットラーがそこへやってきた」という本がある。昭和46年に文芸春秋社から発行された本で、著者は、東大教養学部教授(当時)の西義之さんという方である。当時面白く読んだ記憶があるので、35年経った今になって、あらためて読み返してみようという気になった。それ以来、時代も私も大きく変わって来たわけだが、今の時点で読み返してみても、興味深い本である。

 我々のイメージで言えば、ドイツ人は、世界の中でも最も理性的な国民のはずである。そのドイツ人が、なぜヒットラーといういかがわしい男に席巻され、その横暴に喝采を送ったのかということは、世界史の中でも最も理解に苦しむ謎の一つだと思う。もっとも、現在の目で見ているから現実のヒットラーが滑稽なキャラクターに見えるだけで、当時は決してそうではなかったのだろう。同書によれば、彼の台頭当時は、ドイツ内外の知識人達は、彼を「とるに足りない徒花」と見ていたようだが、それがいつの間にか「本当の権力者」になってしまったというのが、歴史の怖さというものなのだろう。
 
 いまになって、なぜこの本を読み返してみようという気になったのかと言えば、現在の我が国の世相に、ヒットラー台頭の時代にも似たきな臭さを感じるからだ。この本が書かれた昭和46年という時代、著者の目には、時として安保闘争や学園紛争と当時のドイツが二重写しになっているようだ。それから35年の月日が流れ、私の目には、ヒットラーの時代と、小泉さんの言動を一つの契機とした我が国の、特に若者たちの国粋化の流れが重なって見えて来る。もちろん小泉さんがヒットラーほど異常な人物であるとは思わないし、彼ほど危険な人物だとも思わない。しかし、ヒットラー台頭当時のドイツと、小泉・安倍ラインに喝采を送る人々が多い現在の我が国とが、重なって見える部分があることは否定できない。
 「ひょっとしたら、我が国はいまファシズム前夜にあるのではないか」という疑念が私の頭から消し去れないのである。多分考え過ごしだろうと思うし、またそう思いたいところだが、後になって気がついても間に合わない話である。そんな気持で、この本を再読した。


 大論文を書こうという気持もないし、またその能力もないが、以下、「ヒットラーがそこへやってきた」の中から、現在の我が国においても思い当たる節のある部分をつまみ食いで列挙してみようと思う。(用語、用字などは原則として原文のまま)


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 ――――やはりユダヤ人であり、当時のすぐれた文芸批評家であった人にワルターベンヤミンがある。彼もラジカル派に属していたが、1931年の文章に「破壊的性格」というのがある。当時のラジカル派の自画像のようなものであるが、現代のラジカル派にも通ずるところがあるので拾ってみよう。
「だれの眼にも<破壊的性格>とうつるひとびとがいる。この人生でいいかげんにすることのできなかった深刻な問題は、たいていこの種の人びとが原因となっていたのではあるまいか」とベンヤミンは言い、つぎのような性格を列挙する。
「破壊的性格がかかげるのは、<場所をあけろ!>というスローガンだけであり、その行動も<とりのぞき作業>のほかにはない。さわやかな空気と自由な空間への渇望は、いかなる憎悪よりもつよい」
「破壊的性格はわかわかしく、はれやかである。じじつ、破壊作業は、ひとびとを若がえらせる。(略)」
「破壊的性格は、いかなるヴィジョンもいだかない。欲望もあまりない。破壊したあとに何があらわれるかなど、破壊的性格にとってはつまらぬことかも知れない(略)」
「破壊的性格は、理解されるということには、すこしも興味がない。そのための努力なども、まったく浮ついたものだとみなしている。誤解されることは、破壊的性格にとって、けっして不愉快ではない。逆に誤解を挑発しさえする」(略)
「破壊的性格は、自分が何よりもまず歴史的な人間だ、という意識をもっている」(略)(P143)
<西中コメント:この部分を読んでいて、小泉前総理と、彼に喝采を送った多くの人々を思い出してしまった。>

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――――私たち戦後の窮乏を経験してきたものには、現在はかつてない豊かな時代のように思えるが、生まれたときから自分たちの身のまわりにテレビを持ち、手を上げればタクシーがすぐ停まってくれ、飯を食い残してもだれからもとがめられずに育ってきた若い人たちは、豊かさの感じとはべつのものを抱いているかも知れない。その意味で、どの時代でも絶対的に、完璧なくらい安定した、いい時代というものはありえないであろう。(P153)
<西中コメント:1920年代の「黄金の20年代」についての著者の感想の一部だが、著者は、この本を書いた時期との類似に触れている。それから35年経った現在、その傾向は続いていると思うし、若者の親の世代も含めての戦争・戦後体験の風化とともに、その傾向はいよいよ強まっているのではないか。>

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 ――――この点について野田宣雄・中村幹雄両氏の「ドイツ現代政治史」は、(略)つぎのように言っている。「30年9月選挙におけるナチスの躍進の秘密をとく鍵は、農民についでは、むしろ都市の中間層のなかに求めなければならないだろう。29年以降の恐慌の進展はとくに都市の職員、手工業者、小商人などの新・旧中間層にはげしい危機感をよび起こし、農民の場合と同じように、かれらの間に反資本主義的・反労働組合的な感情をひろげつつあった・・・(この)主として非カトリック系の都市の中間層が、30年9月選挙におけるナチスの驚くべき台頭を支えた社会層であったということができる。」(P175)
<西中コメント:現在の我が国との共通項は少ないのかも知れないが、昨年の「郵政選挙」の際の小泉フィーバーを思い起こした。>
             
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――――(略)ミュンヘン大学教授パッシャーの回想によると、(略)ヒットラー政権獲得の1933年に(略)ナチのユダヤ人排撃運動のことを思いあわせ、少女の家庭の安否を心配してたずねると、その少女はいとも天真爛漫に答えたのである。
「ありがとうございます。うちはみんな元気です。私たち今度『ユダヤナチス青年同盟』というのをつくったのです。そして一緒に新しいドイツ建設に働いてますわ」(P208)
<西中コメント:現在狭隘な「愛国主義」に動かされているように見える我が国の一部の若者たちの姿と二重写しになって来る。「ヒットラーの台頭」により現実に不幸になるのは、実は彼らなのに、彼らはこのユダヤ人少女同様、そのことに気付いていないのではないか。>

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 ――――ナチズムの歴史ははじめから終りまで、その過小評価の歴史である――と書いたのはプラッハー教授である。(略)1933年1月30日、ヒットラーが首相に就任したとき、副総理フォン・パーペンは「これでわれわれは奴をやとったぞ」と(略)言うし、「2カ月でヒットラーを隅っこに押しつけてしまったので、ヒットラーめ、キイキイ悲鳴を上げてますわ」とうれしそうに語っている。(P307)
<西中コメント:「過小評価」の歴史は怖い。「戦後体制からの訣別などできるはずがないし、国民がそれを許すはずがない」と思い込んでいるうちに、「気がついてみたらいつのまにかそうなっていた」ということは、現在の我が国でもあり得ることなのではないか。>



 以上、思い付くままに、同書から抜粋してみたのだが、列挙すればキリもないので、この辺で止めておきたい。
 単純な類推は誤りのもとだと思うし、現在の我が国が、ヒットラー台頭前夜のドイツに似ていると単純に主張する積りはない。しかし、当時のドイツの悲劇を、歴史の教訓として、われわれの行動の一つの指針として、頭の片隅に常に入れておくことは、忘れてならないことだと思う。