発音が悪いと通じない英語(スペース・マガジンより)

 秋も深まって来た。夜ともなると、我が家の小さな庭も虫の声しきりである。秋だから虫の声は当然だが、秋の虫は一体いつ頃まで鳴いているのだろう。そろそろ終りが近いのだろうか。これまであまり気にしたことはなかったのだが、突然気になって来た。当然知っているはずのことなのに、意外に正確な記憶がないものだと、ちょっと面白くも感じている。
 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


[愚想管見]   通じない英語                  西中眞二郎

 
ずっと以前、海外出張をしたときの経験である。飛行機で迎えた朝、アメリカ人スチュワーデスが飲み物の注文を取りに来た。コーヒーか、ティーか、ジュースかという質問らしい。私は外国語に弱く、特に会話には弱いのだが、その程度のことは判る。ところが「コーヒー」と答えた積りが、なかなか相手に通じない。私の発音が悪いのかなと思って、いろいろ発音やアクセントを変えて、やっと相手に通じたのだが、考えてみれば妙な話である。選択肢は、わずか三つだ。いくら私の発音がおかしいとしても、「コーヒー」という答が、「ティー」や「ジュース」に聞こえるはずがない。
 同じような経験をもう一つ。アメリカ出張の際、「石油」のことを話そうと思って「ペトロリウム」といくら言っても通じない。これまたアクセントをさまざまに変えて発音したら、やっと「オイルのことか」という反応が返って来た。そんなやさしい単語があるのに、それを失念してわざわざむずかしい単語を使っていた私のお粗末さ加減は別として、これまた「正しい発音」でないと理解して貰えなかった。
 その後、アメリカ政府の外郭団体の招きで、20日余りアメリカを旅したことがある。現地では専用の通訳付きで何ら不自由はなかったのだが、帰りの飛行機で、隣の席のアメリカ人らしい若い男が盛んに話しかけて来る。ところが、不思議なことにその英語が私には良く理解できるし、私が片言の英語で答えると、それがまた相手に通じる。すっかり気を良くして、「20日間アメリカに滞在したから、英語が少し使えるようになったようだ。」と言ったら(もちろん英語で)、相手は「残念ながらそうではない」と言う。
 「私は、日本や東南アジアで商売をしている。したがって、非英語国民に対して、どんな風に話したら理解して貰いやすいか、また、彼らがどんな英語を話すか、ということをよく知っている。あなたが私と会話できるのは、あなたの英語力が上がったからではなく、あなたのような人との対話に慣れている私が相手だからだ。」というのが彼の説明だった。
 そこで、はじめに書いた「コーヒー」の話をしたら、「それがアメリカ人の通弊だ」と彼は言う。「アメリカ人は、世界中の人が自分たちと同じような英語を話すべきだと思っており、ちょっとでも違ったものは受け付けず、自分たちの許容度や理解力が低いのだということに気付いていない。それが、アメリカ人の幅の狭さであり傲慢さだ。」彼の言葉が全面的に正しいのかどうかは判らないが、私にはよく理解できる見解だった。
 その点、われわれ日本人は、融通無碍である。「はし」という言葉一つを取ってみても、関東と関西ではアクセントが違うし、各地の方言にしてもそうである。「変な外人」の「変な日本語」も、われわれには十分理解できる。この日本的「いい加減さ」は悪いことではないと思うし、他方、アメリカ人の「厳密さ」が昨今のアメリカの国際戦略を妙な方向に走らせている遠因だと考えるのは、いささか牽強付会に過ぎるということなのだろうか。
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 この5月、「日本語雑記帳―――ことば随筆」という本を、新風社文庫から出版した。以上は、それに書こうかと思いつつ、主題からちょっと離れるので落した話の一つである。(スペース・マガジン10月号所収)