放送命令と拉致問題(スペース・マガジンより)

 早いもので、12月も中旬である。このところ寒い日が続く。年賀状書きは、一向に捗らない。気持の上では「師走」で走っているのだが、実行面では、歩いてすらいないというのが正直なところだ。ブログもこのところお休み続き、まあ年齢相応にのんびり行くしかないのだとは思いつつ、焦りの気持がないわけではない。
 例によって、スペース・マガジンからの転載である。


[愚想管見] 放送命令拉致問題               西中眞二郎

 
 北朝鮮による拉致問題を国際放送せよとの政府命令が出た。「報道の自由」という観点から由々しい問題であることは当然だが、そのほかにも幾つかの問題があるような気がする。
 一つは、NHKの国際放送に対する内外の信頼性の問題だ。「あの放送は、政府の命令に基づいて行われている放送だ」という印象を聞き手に与えてしまったのでは、対外PRという狙いは半減してしまうだろう。極論すれば、「北朝鮮の放送同様の、政府のプロパガンダ放送だ」ということになってしまえば、国際放送の番組全体に対する信頼性にも影響を及ぼし、我が国の対外発信力を弱めることにもなり兼ねない。
 もう一つは、NHKの国際放送に期待される最大の問題が「拉致問題」なのかどうかということである。素直に考えれば、世界に我が国の主張を浸透させるべきより基本的な課題は、非核三原則によって代表される平和国家としての我が国の姿勢なのではないのか。しかし、現実には、これと逆行する類の発言が政府・与党の首脳から発信されている。今回の放送命令は、ことがらのバランスや軽重を十分認識しないままに、思い付きで行われているような気がしないでもない。
 拉致にせよ、核実験ににせよ、北朝鮮を擁護しようという気持は全くない。とりわけ「拉致」は、「卑劣」な行為であることはもとより、「愚劣」な行為である。おそらく北朝鮮自体、「なぜあんな馬鹿なことをしたのか」という認識は持っているのだと思うし、「反省」と言えるかどうかは別として、「愚劣な過去との訣別」との意味もあって、以前の小泉訪朝の際あっさりこれを認め、その後もお国柄の割りには比較的柔軟に対応して来たという面もあったような気がする。
 北朝鮮のこのような過去の行動は憎むべきものだが、北朝鮮に関しては、拉致問題のほかに、核開発の問題やミサイル問題など、世界平和の観点から重要・緊急な問題が山積している。拉致問題に関する北朝鮮の言い分を信用しているわけではないし、過去の恥部を隠すために「嘘の上塗り」をしている公算も大いにあるとは思うが、国際的な共同行動を有効に進めて行くためには、全体を見通したバランス感覚が求められるということも念頭に置く必要があるのではないかとも思う。
 「戦争」の際の一つの要諦は、「相手の退路を遮断しない」ことだと聞いた記憶がある。逃げ道がなくなれば、相手は徹底的に抗戦するしか道がなくなり、最終的には勝利するとしても当方の被害は大きくなる。このことは、「戦争」に限らず、通常の交渉にも議論にも通じる話ではないのか。北朝鮮の退路を遮断せず、硬直的な強硬路線ではなく、弾力的に対応して落とし所を探って行くという戦略を、もっと模索すべきではないのか。
 私自身確たる定見を持っている話ではないのだが、北朝鮮批判の大合唱を聞くにつけ、我が国が「国論が統一された国家」、「反日的」な発言が許容されない国家になりつつあるのではないかということは、私がいま一番恐れている点である。そういった気持から、昨今あまり目にしなくなった「軟弱」な「愚想管見」を、あえて一つの素材としてお示ししてみた積りである。
(スペース・マガジン12月号所載)