月夜に釜を抜く・・・日本語雑記帳後日譚

 今年も余すところごくわずか。とはいうものの、あまり年末気分にもなれず、肝腎なことはせずに、どうでも良いようなことばかり手掛けている。今日のブログもその一つだ。
 何度か書いたように、この5月に「日本語雑記帳―――ことば随筆」という本を、新風舎文庫から刊行したのだが、その「第四 ことばは変わる」という章に、ことわざの意味の変化などについて書いた。その中で、「月夜に釜を抜く」という言葉の我流の解釈を書いたのだが、発行直後、それについてある知友から、疑問ありとのメールが来た。
 それに対して私も意見を書き、その知友からまた意見が来て・・・ということを、何度か繰り返した。私にとって多少の勉強になったし、また、私の著書の後日譚という意味で、私にとって面白いやりとりでもあったので、まとめてみようと思い立ち、まとめるからには、その知友の了解を得た上で、このブログに載せてみようかという気になった。
 以下は、私の本の抜粋と、その知友とのやりとりの抜粋である。なお、話の中身はいささか品の悪い内容なので、お上品な方には、お読みになることをお勧めはしない。


Ⅰ 日本語雑記帳(P64)より
 
 〔月夜に釜を抜く〕
 諺の意味が変わるというこの稿の話題からは横道にそれるが、判りにくい諺という意味で、ちょっと雑談させて頂きたい。正確に言えば、これは「諺」とは言えないのかも知れない。江戸いろはがるたに出て来る文句である。
 かるたの絵札を見ると、泥棒らしき人物が尻ばしょりして、手拭いで盗人かぶりをし、大きなお釜をかついでいる。空には、大きなまんまるなお月さまが輝いている。辞書を引いてみると、どの辞書も「釜は大事なものだ。それを月夜に盗まれるというのは、よほどドジな奴だ。つまり油断大敵という意味だ。」という趣旨のことが書いてある。辞書によっては、もっと丁寧に、「江戸時代は武士の俸禄は石高制度であり、お米が生活の基本だった。そのお米を炊く釜というものも、非常に大事な存在だった。」という類の補足が付いていたものもあった。
 どうも腑に落ちない。お米やお釜がいくら大切だと言っても、目方の割りには、それほど金目のものでもないだろうし、それより千両箱の方がよほど盗む値打ちがあるだろう。それに、「釜を抜く」の「抜く」という言葉に「盗む」という意味があるのかどうか、仮りにあったとしも、それならなぜ判りやすく「盗む」と言わないのだろうか。また、「釜を抜く」のは泥棒だから、「油断大敵」という意味で盗まれる方に警告を与えるのなら、ドジな奴に対する御注意として「月夜に釜を抜かれる」とすべきではないだろうか―――そんなことをかねがね疑問に思っていた。
 その答えは、ある日突然頭に浮かんで来た。あまり詳細に書くと、私の品性を疑われることにもなり兼ねないので、ここでは抽象的に書くことでお許し頂きたいと思うのだが、「月夜」という言葉から「月に一度の周期性のある生理的現象」を連想して頂きたい。「釜」という言葉から「おカマ」という言葉を、あるいは「釜を抜く」という言葉から「釜を掘る」という言葉を連想して頂きたい。そして、この言葉全体の趣旨は、「油断大敵」ではなく、「代用品で我慢しよう」あるいは「窮すれば通ず」あるいは「欲しがりません勝つまでは」ということではないかと思うのである。
 この「新発見」を、何人かの大学や高校の御専門の先生方に御披露してみた。私の期待は、もちろん「それはすばらしい新発見だ」との反応だったし、逆に「かくかくしかじかの理由でそれはムリだよ」との反応もあり得るかなとは思っていたのだが、結果はそのいずれとも違って、先生方の反応は、いずれも、ニヤッと笑った後「なかなか面白い解釈ですな。エヘヘ・・・」というものばかりだった。
 「ひょっとしたら、この解釈は新解釈でも何でもなく、専門家は皆さんご存じの解釈なのだけれど、皆さんは品性高潔なのでそのことを口にしないだけなのかな。ひょっとしたらこれは触れてはいけないその道のタブーになっており、私はそれと知らずにタブーに触れてしまったのかな。」などと余計な勘ぐりもしているところである。
 ついでに言えば、「亭主の好きな赤烏帽子」という、これまたよく判らないいろはがるたがあるが、これも「月夜」と類似の範疇に属する言葉であり、「代用品で我慢できなくなった亭主」の話ではあるまいかなどと、我が品性は転落の一途を辿っている。なにしろ江戸時代は、性風俗や性表現に関してはかなり自由奔放な時代だったようだから。


Ⅱ 某氏からのメール抜粋(18・6・7)
 「釜を抜く」の新解釈は、面白いけど苦しいんじゃないですか。「オカマ」は「お尻」の意味のはずだから、それを「抜く」と河童か何かみたいじゃないですか。「掘る」なら分かりますけど。ところで、ことわざのほうは、もともとは「抜かれる」じゃなかったかな。とすると、新解釈はますます無理じゃないかと思ったことでした。


Ⅲ 私から某氏へのメール抜粋(18・6・7)
 「月夜」の件ですが、「抜く」と「抜かれる」と、辞書には両方あるようですが、私が歌留多を見た記憶では「抜く」なのです。また、「月夜に釜を抜かれる」では語呂がわるく、表現が散漫だと思います。私は、全く勝手に次のように想像しています。
①原型は「月夜に釜を抜く」で、意味も私の指摘のようなものだった。
②その後、その原意から離れて「上品な」解釈に変わり、その解釈を採りやすいように、私の指摘したような理由で表現も受身に変わった。
 全く我田引水の勝手な想像ですが、あながち的外れでもないような気がしています。


Ⅳ 某氏からのメール抜粋(18・6・7)
 『日本国語大辞典』では、「月夜に釜」について「月夜に釜を抜かれる」の略とあって、用例として浮世草子・傾城歌三味線「此方の太夫様は、武蔵野の月夜に釜で、ぬけて京へござんした女郎じゃげなが」など。このあたりが西中説の意味とも解釈できるのかな。月のものの時に男色されて、結局江戸を抜けるはめに陥ったんでしょうか。西鶴織留の「男はらたつれども、かねわたしてのち壱物もかへされず、月夜にかまぬかれたる如く也」は明らかに「上品」な方の意味ですね。なお、この辞典には「抜く」の方は載っていません(『広辞苑』も同じ)。
 歌留多には確かに「抜く」もありますけど、「抜かれる」とは別の意味なんでしょうか。それとも単なる語呂の問題なのか、表現の角度をかえたただけなのか。だんだんよく分からなくなりました。本気で、このことわざについて初出のものから時代を追って出典しらべをしたらはっきりするんでしょうけど。一方、これは全くの勘ですけど、「抜く」のも「抜かれる」のも、オカマさんにはマッチしないように思えて仕方がないんですが、いかがでしょう。


Ⅴ 私から某氏へのメール抜粋(18・6・7)
 御教示ありがとうございます。どうも素人の厚かましさで、調べもせずにヤマカンばかりでもの申してお恥ずかしい限りです。「これだから素人は扱いにくい」と言われそうですね。


Ⅵ 私から某氏へのメール抜粋(18・12・27)
 先般、小著につき御指摘頂きました関係で、小さな発見(?)がありましたので、お便り致します。昔買った「艶笑人名事典(駒田信二著・1987文春文庫)」をたまたま読み返していましたら、次のような記述がありました。
――――詮方なし亭主の好きな赤団子
 という句もある。江戸の「いろは歌留多」の「て」の句の「亭主の好きな赤烏帽子」をもじった、というよりも、作者はおそらくこれがほんとうの意味だということを示すために作ったのであろう。「亭主の好きな赤烏帽子」とは、普通、たとえ異様なものでも一家の主人の好むものなら、家の者は同調しないわけにはいかない、という意味に解されているけれども、まことの意味はたぶんこの川柳のとおりであろう。(P74)
――――おりふしは妾月夜に釜抜かれ
     月夜には釜を抜く気になる亭主
 などという句もあるとおり、世間には女房の菊座を使う男もいるのである。句は二つとも「いろは歌留多」の「月夜に釜を抜く」のもじりだが、二つの句の「月夜」は、女房あるいは妾の「月のさわりの夜」という意味であることは、いうまでもなかろう。(P122)
――――ところで「月夜に提灯」という諺には裏の意味もある。「月夜」とは女性の月のさわりの夜のことをいう。つまり「月夜に提灯」とは、女は「月夜」で、男は「提灯」、これじゃ両方とも使いものにならないという意になる。そういうときにはどうすればよいか。鰻を食うなり卵を飲むなりして「釜をぬく」手もあることを次の川柳は教えている。
(上記と同じ川柳2句・略)(P236)
 以上がささやかな発見(?)です。著者の解釈には一般性がないかも知れませんが、江戸時代に既にそのような川柳が存在したということは、客観的な歴史的事実として残っている(大袈裟かな?)と言えるのではないでしょうか。なお、川柳の原典は同著には記載されていませんので判りません。


Ⅶ 某氏からのメール抜粋(18・12・28)
 どうやら僕の方が一知半解の知識で発言していたようですね。”もじり”が成り立つということは、カマは抜くもの、という読み方が可能だということでしょうから。


Ⅷ 私から某氏へのメール抜粋(18・12・28)
 早速の御返事ありがとうございました。ところで、なぜ「釜を抜く」なのか、以下のような全く根拠のない想像をしてみました。
――「釜」は、元来排泄のための器官であり、外部から物体を挿入するためのものではない。したがって、外部に対しては閉ざされた存在であり、いわば「閉栓」されているものである。これを外部に対して開かれた存在にするためには、栓を抜く必要がある。そんなところから、外部からの物体の挿入につき、「釜を抜く」という表現が生まれたのではないか。・・・・
 以上、素人の全く勝手な想像です。
 

Ⅸ 私から某氏へのメール抜粋(18・12・28追伸)
 例によってろくに調べもしないで、適当なことばかり言っていたのですが、遅ればせながら再度広辞苑を開いてみましたら、「抜く」の第一義は「ふさいでいるものを細長いもので抜き破って向こう側に出す」とあり、まさにそのものズバリです。なお、第二義が「ふさいでいるものの中から細長いものを手前に引き出す」とあります。現在ではむしろ、この第二義のイメージが強くなっているようですね。また、明解古語辞典には、第三義として「貫く、穴に通す」とあります。どうやら、先ほどのような想像をしなくても、「抜く」の意味は通じそうです。
 なお、広辞苑には、第二義の④として「盗みとる」とあり、その例示に「月夜に釜を抜かれる」とありますが、これは私の学説(?)で行けば、歌留多の解釈を上品に変えたために、それに合わせて無理に出て来た意味付けで、間違いのような気もします。