60年安保と通産省入省

 数カ月前、大学時分に同じ下宿にいた友人と久々に会って飯を食ったのだが、そのとき、彼に褒められた。昭和35年、私が通産省に入省したときに、印刷して葉書で出した挨拶状のことである。「随分思い切った挨拶状であり、気骨を感じた」というのが彼の褒め言葉だった。それに続いて、「それに比べていまの若者は・・・」という若者批判も続いたが、それはこのメモの主題ではない。
 その挨拶状は次のようなものだった。「東京大学法学部を卒業し、通商産業省に入省しました」というありきたりの文言に続いて、「民主主義の精神を蹂躙して憚らない岸内閣の下で国家公務員としての第一歩を踏み出したことは、まことに残念なことではありますが、より良い明日を信じて頑張って行きたいと思います」―――彼に褒められたのはこの部分である。何分50年近く昔の話だから、一字一句正確だとは限らないが、私としてはかなり考えて書いた文章であり、比較的鮮明な記憶も残っているので、大きな違いはないだろうと思う。
 当時は、60年安保に代表される激動の時代だった。霞が関の官庁街は、連日大勢のデモ隊に埋め尽くされていた。私自身も、学生時代・通産省入省後を通して、何度かデモにも参加した。そういった時代の波の中で、この挨拶状の文言は、私の正直な気持だった。
 もっともそれだけではなく、その中には「言い訳」も含まれていたような気がする。官僚の道を選んだくらいだから、私は「反体制派の左翼学生」だったわけではない。しかし、「体制べったりの官僚の道を選んだわけではなく、批判精神も十分持っている積りだ」という言い訳が挨拶状の中には含まれていたような気がする。もっと言えば、私自身への言い訳、自分の進路についての判断の正当化もその中に含まれていたような気がする。
 この挨拶状を友人や親戚などに送った後に母から聞いた話なのだが、「西中の息子はアカになったようだ」と親戚の間で一時話題になったという。考えてみれば無理のない話で、私の郷里の山口県大島郡は当時の岸総理の選挙区であり、岸さんの信奉者も多い地域である。ついでに言えば、同じ選挙区に岸さんの実弟である佐藤栄作さんもおり、地元では、岸派と佐藤派がコップの中の嵐を繰り返していた。おまけに、岸さんは通産省の前身である商工省のOBで、通産官僚の大御所的な存在でもあった。
 そのような環境の中で、いわば「入社の挨拶状で社長の悪口を言っている」わけだから、かなり度胸を要する話だったような気がするし、逆に随分幼稚で青臭かったという印象も拭えない。しかし、思い起こしてみると、現在の私から見て、「あまり利口ではなかったな」、「扱いにくそうな部下だと上司は思っただろうな」とは思いつつも、当時の青臭さは決して嫌いではない。その後の長い通産省生活、退官後の生活を通して、ある程度の青臭さを残しながら職場生活を送って来たような気がするし、古希に達した現在でも、「枯れた老人」になるよりは「青臭さを残した老人」になる道を選びたいという気持は、依然として残っているような気がする。
 だからどうだという発展性のある話ではなく、ただの埒もない思い出話である。比較的最近、古い資料の整理をしているときに実物を目にした記憶があるのだが、もう一度探してみたらどうしても見つからない。結局記憶に頼ったメモになってしまった。