渡辺議員の反乱

 先日の国民投票法案の採決の際、民主党渡辺秀央議員が賛成票を投じて話題になった。党の方針に反しての賛成票であり、どのような処分がされるのか関心があったのだが、結局「厳重注意」という軽い処分で済んだようだ。渡辺議員は、まだ私が通産省に勤務していたころ政務次官もされたベテラン議員である。どのような経緯で民主党に移られたのか記憶が定かではないが、いずれにせよ自民党当時から「リベラル」派に属するとのイメージはあまりなく、賛成票を投じたこと自体に驚いたわけではない。それにしても、今回の処分は軽きに失したような印象があり、民主党としてもっと毅然とした態度をとるべきものだったような気がしてならない。
 

 そうは言いつつ、私の心の中には、矛盾した要素がある。先の国会で、郵政民営化法案に反対した自民党議員に対する処分は、かなり徹底したものだった。いわゆる刺客擁立にはじまり、彼らの政治生命を絶つに近い厳しいものであり、小泉総裁の冷酷さ、非情さに対し、怖さにも似た憤りを感じたものだ。このブログにも書いたことがあると思うが、個々の議員の判断を許さない党議拘束というシステムには、大いに疑問を呈したところだ。
 そのときの私の心情と、今回の私の心情との間には、明らかに矛盾がある。私は、国民投票法にも郵政民営化法にも反対の意見を持っている。そのため、郵政民営化法案に反対した反乱議員には共感を持つし、国民投票法案に賛成した反乱議員には反発を感じる。しかし、それはあくまでも私の両法案に対する賛否の意見から出て来る反応であり、いわば私の主義・主張から生まれた偏った反応に過ぎないのではないか。
 

 それが私の偏った反応ではなく、根拠のある違いだということが言えるのかどうか、少し考えてみたいと思ったのが、今日のこのブログの趣旨だ。
 
 両者の違いはどこにあるのだろう。私の反応の違いを、あえて分析すれば、以下のようなことが言えるのではないか。

1 いずれも自民党総裁と執行部の主導により強行された法案だということは共通だが、郵政民営化法は、その政治的インパクトの大きさは別として、「我が国のかたち」という意味からすれば、瑣末な法案である。これに対し、国民投票法は我が国の根幹をなす憲法に絡む法案であり、その重みについては格段の違いがある。「重いから党議拘束をかける」と単純に言ってしまって良いものかどうかには自信がないが、それぞれの政党の「立党の精神」にも絡む問題であり、それだけに党としての方針の拘束力が強いことは当然のことのようにも思える。
 これに対し、郵政民営化法案は、自民党の中でも反対が多かった法案であり、小泉総裁に強行されたという印象の強かった法案である。しかも立党の精神などといった高次元の問題とは全く無縁な存在である。それだけに、それに余りに強い党議拘束をかけることには問題があるのではないか。これに対する反対は、「立党の精神に反する」というより、「小泉総裁の意向に反する」という面が大きく、それだけに、強硬な処分に対して私が感じた反発が強かったような気がする。

2 党議に反しての賛成と反対は、形の上では同格だが、実質的にはかなりの違いがあるのではないか。渡辺議員の「賛成」は、「民主党の方針に反対し、自民党の方針に賛同する」という、いわば「積極的な反乱行為」である。極論すれば、「それなら脱党して自民党に鞍替えせよ」という立論すら成り立つような性格のものである。これに対し、郵政反乱派の「反対」は、「積極的に反対した」というよりは「積極的に賛成できず、したがって反対になった」という面、いわば「消極的な反乱行為」という面もあるのではないか。もちろん棄権するという手段がないわけではないが、それも議員として不見識とも言える手法であり、一般論として言えば、「賛成」という積極的行為と、「反対」という消極的行為との間には、質的な違いがあるのではないか。なお、郵政の場合、瑣末な法案であるだけに、反乱議員の心情としては、せいぜい「反執行部」であり、「反党」というほどの強い意識はなかったのではないか。

3 もう一つ、昨今の自民党の場合、総裁はじめ党執行部の権力が極めて強く、それだけに、私の場合それに対する反発もあり、「もう少しモデレートに」という気持が働く。それに比して、民主党の執行部は弱体であり、「もう少ししっかりしろ」という気持が働く。その、執行部の力の強弱に対する反応の差もあるのかも知れない。考えてみれば、「自民党崩れ」、「自民党流れ」から、旧社会党までの寄り合い世帯である民主党の性格の曖昧さと脆弱さに対する歯痒さがそこにはあるのかも知れない。

 
 両者に対する私の意識の違いを、いわば正当化してみようと思ってキーに向かったものの、書きながら、「どうもすっきりした説明にはなっていないな」という印象は拭えないのだが、私の印象の違いをあえて分析すれば、そんなところなのかとも思う。そうは言っても両法案に反対の意見を持っているという私の心情が、私の印象の違いの根底にあることは否定できないことではあるのだろうが・・・。


 この際ついでに書いておこう。
 小泉さん、安倍さんと続いて、総理・自民党総裁のリーダーシップは著しく強化された。そのこと自体が悪いとは言わないが、小泉さん、安倍さんという偏った発想の持ち主が大きな権限を持つことには、一市民として大きな不安を感じる。
 彼らのリーダーシップが強くなった原因に、両氏の個性があることは当然だろうが、より構造的な問題として、小選挙区制と政党交付金制度の影響が大きいと思う。以前の中選挙区であれば、自民党から複数の候補者が出ることは当然であり、それだけに派閥の存在理由も大きかったし、執行部に睨まれても立候補する余地は十分あった。しかし小選挙区になれば、公認候補は一人に絞らざるを得ず、したがって執行部の権力は強くなる。加えて、政党交付金制度の採用により、政党から離れれば金銭的にも恵まれないことになり、そういった意味でも執行部による締め付けが働く余地が大きくなる。
 これらの制度を採用した際、そこまでの読みや意図があったのかどうかは知らないが、「執行部独裁」、ひいては「総理・総裁独裁」の大きなよりどころになっている両制度だけに、その採用の際、「一般国民とはあまり関係がなく、政界という限られた業界の中の話だ」と安易に考えていたのではないかという悔いが残らないでもない。