学園祭内閣の暴走(スペース・マガジン6月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。このうち憲法関連部分は、このブログに以前書いたものとほとんど同じである。(このことは、スペース・マガジンの読者の方と、同誌の編集者には内緒にお願いします。)


      [愚想管見]  学園祭内閣の暴走       西中眞二郎


 去年の11月号に「学園祭内閣の誕生」を書いた。その時点では、「戦後レジームからの脱却」を公言する安倍さんに対する不安を抱きつつも、正直に言って、「ブレーキが掛かって、たいしたことはできないだろう」とタカを括っていた面も否定できない。ところがどうして、その歩みは相当なものだ。教育諸法の改正、国民投票法の制定、集団的自衛権の懇談会等、安倍政権は、憲法改正を視野に入れつつ、着々と歩を進めようとしている。
 自民党の中にも、かつての良き「保守主義」の理念を大事にしたいと思っている人は多いはずだし、また、公明党の立党の原点は、安倍内閣の進めようとしている方向とは全く逆の方向だとすら思う。にもかかわらず、安倍政権の動きに対する批判的な声は、与党の中からほとんど聞こえて来ないように見える。このことが私は怖い。
 憲法問題に話を絞ろう。憲法改正と言っても内容次第ではあるが、付随的なことは別として、その根幹にあるのはあくまでも9条の問題であり、私は、現行平和憲法は理念として尊重すべきものであるに止まらず、わが国の国益にも叶ったものだと思っている。ムリをして「普通の国」になる必要はなく、「ちょっと変わった国」で十分である。
 自衛隊憲法違反だという主張もある。憲法の条文を素直に読めばもっともな主張である。しかし、その憲法の下で、苦しい論理を展開しつつ自衛隊は存在して来た。法律に基づき50年以上存在して来たものには、それなりの重みがある。憲法というものを余りに硬直的に解釈することは、適切でないと私は思う。憲法に幅があるとすれば、その中でどの路線を選ぶかは国会の問題であり、政策判断の問題だとの一面を持つ。もっとも、これまでの議論の経過を無視して、為政者の独断で「集団的自衛権」にまで踏み出そうとする動きは「暴走」以外の何物でもないと思うが・・・。
 自衛隊の存在は認めるとして、それでは、「平和憲法」に一体どんな意味があるのか。少なくともその存在がわが国の軍事大国化の歯止めになっていることは間違いないし、アジアを中心とする世界の国々に、「平和国家」としての日本をアピールできる最も効果的な材料であることは間違いなかろう。全く白紙の状態で考えるのならともかく、現状を前提として考える限り、憲法改正ということは、世界各国に日本の軍事大国化の懸念を抱かせる十分な契機になる。また、日本が「軍事的貢献」を迫られた場合、「憲法上の制約」というのは、対外的にも主張しやすい論拠である。まして、日本に憲法を「押しつけた」アメリカには、胸を張って主張できる論拠である。国際社会で、唯一の原爆被爆国家として、平和主義を基本としつつ、賢明に、あるいはズル賢く立ち回るためには、「平和憲法」の存在とその利用価値は極めて大きい。
 大臣、知事をはじめとする公務員は、憲法を擁護し尊重すべき義務を負っている。某知事のように、国旗・国歌の強制を図る一方で、我が国にとってより基幹的な存在である憲法を軽視し、侮辱するような発言をすることは、為政者としての基本的資質を欠いたものだとしか言いようがない。
 話を戻す。小泉内閣当時から強まって来た「総理・総裁独裁」がいよいよ定着して「学園祭内閣」が後戻りのできない地点まで暴走することのないよう、野党はもとより、与党の「良識派」にも十分なチェック機能を果たしてほしいものだ。
(スペース・マガジン6月号所載)