「眞」は行き倒れの死体

 先日新聞を見ていたら(6月30日朝日新聞朝刊)、私の名前である「眞」の大きな活字が目に飛び込んで来た。何だろうと思ったら、字の生まれた字源の話である。その記事の「眞」の部分をそのまま引用すれば、以下のような記事である。
 「眞」:よく知る漢字に意外な由来が。名前に使うことの多い「真」だが、成り立ちは「行き倒れて死んだ人」=「白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい」から
 「眞」:旧字は「匕」と「県」でできている。「匕」は死者のこと、「県」は首の転倒形。横死者、不慮の災難で行き倒れとなり死んだ人を示す字形。

 
 これにはいささか参った。私の名前は、私の好みに合った名前であり、「眞」という字は、私の好きな字である。それだけに、いささか裏切られたような気がしないでもない。私の両親に学がなかったと言ってしまえばそれまでだが、皇室にも「眞」の字を使っている方がおられるようだし、皇室から御下問を受けた有識者も、字源を御存じなかったということなのだろうか。それとも、この新聞記事のもととなった学説自体が確定的なものではないということなのだろうか。
 いずれにせよ、大いに意外だったことは事実だが、依然として私は「眞」の字が好きである。

 
 話は変わる。「眞」は人名漢字では認められているが、常用漢字は「真」である。最近でこそワープロやパソコンの普及により「眞」の字も市民権を与えられているが、私の若かったころは、通常の場合、印刷やタイプライターの活字には「眞」はなかったようで、私の名前も「真」で代用されていた時代が長かった。役所当時の辞令の活字や、新聞記事、国会議事録等で私の名前が出て来たときには、例外なく「真二郎」になっていた。そう言えば、昔作った銀行預金の通帳は、未だに「真二郎」のままだし、私自身も妥協して「真二郎」という字体を使っていた時期もある。
 朝日新聞の「声」にこの数年間に私の投稿が8回ほど掲載されたことがあるのだが、ずっと「真二郎」が続いて、最近になってやっと「眞二郎」という字が使われるようになった。数年前、同じ朝日新聞の「折々のうた」に私の作品が掲載されたこともあるのだが、これも「真二郎」になっている。
 常識的に言えば、どちらでも構わないようなものだが、インターネット等の場合には大きな違いがある。機械の上では、「眞」と「真」は全く別物のようで、パソコンを始めたころ、「西中眞二郎」を検索してみたら、心当たりのある記事が出て来ない。それではと「真二郎」で検索してみたら、ちゃんと載っていた。今でも、時折は「真二郎」でも検索してみるようにしている。
 事務処理の機械化が緒につき始めたころ、「ニシナカシンジロウ」とカタカナ書きで機械的に処理されていた時期もあったようだ。役所や企業からの大量処理の文書が届く折など、宛名が「ニシナカシンジロウ」となっていたものも多かったように記憶している。さすがに昨今ではカタカナ書きの宛名はほとんど見受けないが、「真二郎」あてのものは今でも結構多い。

 
 年金のミスが大きな問題になっているが、その原因の一つに、字体の違いやカタカナ書きのために、姓名の突合せが十分に行われていないという点もあるようだ。「行き倒れ」から話が飛んでしまったが、単なる好みの問題だけではなく、「たかが字体、されど字体」、字体が実社会にも影響を及ぼす可能性のある話だという気がしている。