題詠百首選歌集・その40

 このところぐっと涼しくなった。もっとも明日あたりからまた夏の戻りがあるらしい。涼しくなるのはありがたいことではあるが、夏が終わるのも何となくもの寂しいものだ。

 
     選歌集・その40

035:昭和(110〜134)
(萱野芙蓉) 文机に伯父はひつそり蒐集す昭和六十四年の硬貨
(里坂季夜)クリスピークリームドーナツ待ちながら昭和話の咲く雨の午後
(やすまる) 千切れてはかたまりたがる灰色がぼたぼた昭和をこぼしてあるく
(A.I) 昭和めく軽トラックが引越しの荷物を運ぶ春の農道
(遠山那由) 郷愁は根拠なき夢、あてどなき希望、今夜も昭和を恋うる
037:片思い(102〜126)
(A.I)片思いしたことのない思春期にうっすらと削ぐ鉛筆の芯
(岡元らいら)片思いそのきざはしの踊り場でチェット・ベイカーただただ甘く
(遠山那由)尖りなきガラスの破片思い出を語らせもせず置き去る私
038:穴(102〜126)
(萱野芙蓉) ふたつみつ風穴あらば軽からむ心臓と肺のなかほどあたり
(翔子) ひっそりと都会の穴の入り口は地下鉄という名の蟻地獄
(兎六) 穴の字にふたがあるのでうたがいもなく水筒へ麦茶を注ぐ
047:没(76〜101)
(寺田 ゆたか)薄明の伸びて続ける静かさの凍てつきて ああ極の日没
(小籠良夜)新しき月の産土(うぶすな) 見渡せば此処からの日没はうつくし
(佐原みつる)没年を確かめるため全集の年譜のページを最初に開く
(うめさん)日没後一時間経て日は出づと白夜見て来し夫は言へり
(萱野芙蓉)没り陽のつよく脈打つ埠頭にて未だによぎる出奔の夢
(里坂季夜)日没を待ちきれなくてあちこちで花火はじまる七月二十日
058:鐘(53〜77)
(白辺いづみ)午後五時の鐘はいつでも小三の夕焼けダッシュの道へつながる
(文月万里)古き町の迷路のごとき石畳風吹くように響く鐘の音
(村本希理子)傷ついた舌ふるはせて鳴る鐘のなりやむまでを項垂れてをり
(黄菜子)十二使徒の影ふかくなり夕拝の開始を告げる鐘鳴り響く
(きくこ) 大杉の木立歩みて鐘楼の震える木霊ここ延暦寺
(寺田 ゆたか)大いなる石の広場の人ごみに鳩とあそべばミサの鐘なる
061:論(51〜75)
(村本希理子) 極論に極論重ねる楽しさよ月下美人が一輪ひらく
(きくこ) 月光に目を光らせた白い猫犬に議論を吹っかけにきた
(黄菜子)討論は丁々発止となりゆくも吾を置き去りにテレビは終わる
(よさ)結論がもう見えてきたせっかくのシャンパンとうに忘れ去られて
(カー・イーブン)冥王星あなたを今も惑星と信じてまわりつづける歌論
062:乾杯(51〜75)
(澁谷 波未子) 乾杯の意味さえ知らぬ幼子が ジュースのグラス差し出して来ぬ...
(黄菜子) 乾杯のグラスに揺れるシェリー酒に白夜の窓ゆ薄明かりさす
(きくこ)居待ちしてゆるゆる昇る山の端は今宵欠け行く月に乾杯
(野樹かずみ) こんど乾杯するときはきっと北の空の星座のかたちも変わっているね
(橘みちよ) 高層の夜の窓辺に乾杯と口には出さずグラスかたむく
(百田きりん) ひと息に飲み干してからからっぽのグラスで夏と乾杯をする
(うめさん)引越しを終へてビールで乾杯す一人暮らしを始める娘と
078:経(26〜50)
(本田鈴雨)はらに沁むる読経声にて軽口を四十手前の住職は言う
(新野みどり)誰にでも優しくしたいと願いつつ般若心経眺める深夜
(五十嵐きよみ) 悲しみを経てきた分だけ強くなるなんてまやかし海は果てない
(村本希理子)盛大にモーツァルトを鳴らしつつ歯科医はひよいと神経を抜く
(うめさん) 中庭よりシベリア経由の機影見え雲に刺さりて消えてゆきたり
079:塔(26〜50)
(小春川英夫) 鉄塔が乱立している町を過ぎ未来が見える町に来た初夏
(澁谷 波未子) 塔と言ふ名前つけらる葡萄酒の コルク微かに異国の香...
(小籠良夜)神あれば魔の共にあり仄暗く土塔林立する異教の地
(振戸りく)割り箸で作った塔に火を放つ儀式で夏とお別れします
080:富士(26〜50)
(本田鈴雨) 夕空に山かげ浮かぶ地に在れば居を移すたび富士をたしかむ
(原田 町)家々の建ちこみくれば電線の間に富士のわづかに見ゆる
(yuko)晴れ間にも顔を見せないことがある気難し屋の富士を親しむ