地震・原発・柏崎(スペース・マガジン10月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


[愚想管見] 地震原発・柏崎               西中眞二郎

 
 「柏崎で大地震があって、原子力発電所で火事が起きているわよ」。居間でテレビを見ていた妻が、私に知らせに来た。通産省勤務当時原子力発電課長を務めたことがあり、柏崎刈羽原子力発電所の建設にかかわったこともあるので、あわててテレビの前に行った。火災は、原子炉建屋の外の変電施設の部分らしい。発電設備自体には大きなトラブルはないようで、ひとまず安心した。「これなら格別のことはないな。ただ、原子力発電所のイメージが低下し、それに対する不安感は募るだろうな。」というのが、そのときの私の第一印象だった。
 その後内容も次第に明確になって来たので、現時点での私なりの印象を整理してみよう。
 
 (1) 原子力発電それ自体の安全性は、一応実証された。稼働中の発電所は安全に自動停止したし、現時点で判断する限り、施設本体には大きなトラブルはないようだ。公的な立場にある専門家が「貴重な実験だったが、これにより安全性は立証された」という趣旨の発言をして問題視されたようだが、立場上からの発言の当否は別として、私も似たような印象を受けたことは事実だ。
 (2)柏崎周辺の活断層の存在に関する知見が不十分だったようだ。知見が万全とは限らないという前提に立って、余裕を持った安全度は確保されており、今回の想定外の震度に対しても対応できたようだが、それにしても更に知見を加え、安全性の強化を図るべきことは当然だろう。
 (3) 原子炉本体には十分な安全策が講じられているとは言え、消火体制や連絡・広報体制の不備を含め、周辺部分についての対策が十分でなかったことは否定できない。また、放射性物質を含んだ水の流出もあったようだ。全く問題ないレベルとは言え、想定外の経路からの流出自体は問題だ。もちろん、周辺設備の場合、本体に比べてその重要性が低いことは当然だが、本体以外のトラブルでも周辺住民に不安感を与えることは事実だし、また、補修や確認に時間が掛かることになれば、電力会社はもとより、電力消費者たる一般国民にも損失を及ぼすことになる。周辺部分をどこまで強化すれば良いのか、十分な検討が必要だろう。
 (4) 原子力発電の一つの難点は、「風評被害」の発生ということだ。漠然とした不安感により海水浴客が減少し、イタリアのサッカーチームの訪日取り止めにまで至ったと聞く。これらは全くナンセンスな反応だとは思うが、現実にそのような事態が発生した以上、これを無視するわけにも行かない。誰のせいでもない風評被害、これにどう対応するかということも大きな課題だろう。


 書きたいことはほかにもいろいろあるが、目ぼしいものだけに絞ってみた。原子力というもの、いろいろ厄介な課題を抱えている存在だが、エネルギーの安定供給のために不可欠な存在でもある。三十年近く前の原子力発電課長当時からの私の持論なのだが、「安全性に更なる配慮を払いつつ、過大な期待を抱くことなく、エネルギー源全体のバランスのとれた形で進めて行く」という甚だ月並みな結論しか、今となっても思い付かないのだが・・・。(スペース・マガジン10月号所収)

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 字数の関係もあり、同誌には書けなかったのだが、この際、多少補足的なコメントをしておこう。

 30年近く前の原子力発電課長当時も現在も、私は原子力発電について以下のような考えを持っている。
 
 (1) 原子力というものは基本的には危険なもので、できることなら扱いたくないものだ。しかし、我が国や世界のエネルギー事情を考えたとき、いまや原子力発電のない状態は考えられない。原子力発電は、やむにやまれぬ必要悪とでも言うべきものだろう。
 (2) その安全性の確保は当然の前提であり、また、我が国の技術水準からすれば、それは十分可能だ。
 (3) したがって、安全の上にも安全を重視しつつ、原子力発電を進めて行くべきだが、原子力に過度な期待や負担をかけることなく、各エネルギー源のバランスのとれた形でのエネルギー供給を進める必要がある。

 以上が私の考えの基本的骨組みなのだが、そのほかに派生的な問題――とは言っても、場合によっては基本的問題に劣らない重要な問題だが――として、次のようなことを指摘することができるだろう。
 
 (1) 原子力発電は核廃棄物という厄介な荷物を後世の人々に残すことになる。もちろん同時に、技術やエネルギー源自体を後世の人々に残すことにもなるので、その功罪を安易に論じるわけには行かないが・・・。
 (2) 原子力に対する漠然とした不安が世間一般に残る以上、その不安感に基づく「風評被害」というものが避けて通れない。また、その立地に当たっての地元住民の賛成・反対の意見の相違とそれに基づく住民相互の亀裂は、ほかの場合より大きくなる可能性が強い。
 (3) 原子力発電の初期段階では、関係者は、末端に至るまでいわばその道のエリートであり、それなりの力量と使命感を持っていた。しかし、その普及とともに、「単なる使い馴れた技術」になってしまい、緊張感が薄れることになることが懸念される。(数年前の東海村の臨界事故は、まさにその現れだった。)
 (4)安全性確保のためには十分な管理が必要であり、そのためには施設や物質に対する万全の管理が必要となる。このことが、「管理社会」につながることになる懸念がある。

 だからと言って原子力発電をやめるという選択肢は残されていないと思うのだが、以上のような問題点を十分念頭に置いて対応して行くことが必要だろう。