差別用語(スペース・マガジン3月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


      [愚想管見] 差別用語             西中眞二郎

 人を差別するような言葉を避けるべきことは、言うまでもないだろう。特に法令や公文書等でこのような言葉を使うことは適当でないし、最近では随分改善されたようだ。例えば「盲」という言葉、これを差別用語と呼べるかどうかは別として、以前は法令の中などでも大手を振ってまかり通っていたが、最近では別の言葉に置き換えられている。
 そこまでは当然として、一般の社会生活や言語生活の中でそれをどこまで避けるべきなのかは、さまざまな意見があり得るだろう。例えば、「めくら蛇に怖じず」という格言はどうなるのか。「視覚障害者は蛇を怖がらない」ではどうにもしまりがない。盲目的、盲滅法、明き盲、盲従といった言葉も使用を控えるべきなのだろうか。
 実は、この原稿を書こうと思ってパソコンに向かい、「めくら」と打って漢字に変換しようとしたら、「芽蔵」などという字が出てきて、「盲」の字が出て来ない。ここまで来れば、いささか行き過ぎのような気がしないでもない。
 美空ひばりさんの「波止場だよお父つぁん」という歌(昭和31年、西沢爽作詞)の1番に、「年はとっても盲でも・・・」という歌詞があるのだが、最近のテレビ番組などでは、この歌詞が出て来ないようだ。先日カラオケスナックに行った際そのことを思い出して、この歌をリクエストしてみたら、1番のその部分は2番の「きょうもあたいに手を引かれ・・・」という歌詞に差し替えられ、3番を2番に繰り上げ、2番を3番に回して本来の「きょうもあたいに・・・」がまた出て来た。著作権者の了解は当然得ているのだろうが、世間一般に対するテレビでの放映はともかく、カラオケの画面でまで歌詞を変える必要があるのかどうか、疑問の余地がないわけではない。
 
 テレビで古い映画などを見ていると、「この映画の中には、現在では適切でない用語が使われておりますが、当時の時代背景という意味でそのまま放映致します」という趣旨のテロップが出て来る場合がある。よほどひどい言葉が出て来るのかと思っていると、聞き逃してしまいそうな言葉の場合が多いのだが、どうも批判を避けるための過剰防衛のケースが多いような気がしないでもない。
 20年以上前、ある雑誌に頼まれて書いた私の文章の中で、「文盲という言葉があるが、最近ではコン盲という言葉も生まれているようだ。言うまでもなくパソコン音痴という意味である。」という類の表現を使った記憶があるのだが、もし今同じ趣旨の文章を書くとすれば、この表現は避けたかも知れないと思う。「痴呆症」を「認知症」に置き換えるご時世だから、いずれ「音痴」という表現も問題があるということになるのかも知れない。
 「この表現は避けたかも知れない」という裏には、読者の批判を避けたいという気持があることは当然だが、私の言語感覚自体が、当時と現在とでは変わって来ているという面もありそうである。その私の言語感覚の変化が、差別用語を避けるという正常な感覚になったということなのか、それとも意識しないままに自主規制が働いて言語生活が貧困になって来たということなのか、それは私自身にも判らない。(スペース・マガジン3月号所収)

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 たまたま今日の朝日新聞に、「聾学校」のことが載っていた。静岡県が「聾学校」との名称を「聴覚特別支援学校」に変えようとしていることに関し、肝腎の聴覚障害者の方から反対があるという記事である。全日本聾唖連盟という名前の聾唖者の団体もあり、「聾であることに私たちは誇りを持っている」という関係者の談話も載っている。
 正直に言ってちょっと意外な反応だったが、考えさせられるところの多い記事であり、「差別用語」と安易に決め付けてこれを避けようとする風潮に対する警鐘とも言えるのではないかという気もする。