記憶(スペース・マガジン6月号)

 例によって、月に1度の、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。



    [愚想管見] 記憶                 西中眞二郎

 
 20年以上前、まだ通産省に勤務していたころのことだ。所用で秘書のお嬢さんを呼ぼうと思ったら、彼女の名前が出て来ない。仕方がないから、「あのねえ・・・」などと言いながら、彼女に近寄って行くしかなかった。1年以上一緒に仕事をして来た仲間であり、日に何度も名前を呼んでいる相手である。もちろん間もなく思い出したが、「ぼけるにはまだ早いはずだが・・・」と思いつつも、少々不安だった。
 その後これほど極端な経験はないが、知っているはずの人名や地名が出て来ないことは時折ある。ぼんやりしたイメージ、ほとんどの場合発音ではなく漢字のイメージなのだが、それが頭の中をぐるぐる回っているだけで、肝心な答がなかなか出て来ない。焦点が絞れないままに諦めて暫く関心をほかの方にそらしているうちに、何の脈絡もなくその名前がスッと頭に浮かぶというのは、良く経験するところだ。
 

それほど親しい人というわけではないが、ある特定の人の苗字がなかなか出て来なかった時期があった。まるっきり出て来ないのではなくて、全く違う特定の苗字が頭に浮かび、「どうも違うようだ」と思いつつも正しい苗字が出て来ない。この場合も、何かの拍子に正しい苗字が出て来るのだが、最初に頭に浮かんだ苗字と正しい苗字とは、全く似ても似つかない苗字なのである。
 同様の経験をされた方が多いのかどうかは良く知らないが、記憶というもののメカニズムは一体どうなっているのだろう。特に、違った苗字が頭に浮かぶといった場合、私の頭の中の配線はどうなっているのだろう。譬えて言えば、配線が狂って別のコードにつながってしまい、それが何かの拍子に正しい回路につながり直すということなのだろうか。


 「偽記憶の現象」というものがある。はじめて来た場所なのに以前にも来たことがあるように感じる錯覚をはじめ、「前にもこんなことがあったはずだ」という偽りの記憶である。少年時代にそのような経験が何度かあった。そのことが不思議でもあり、少々不安でもあったのだが、徒然草吉田兼好法師が書いているということを高校生のころ知り、「自分だけのことではなかったのだ」とちょっと安心した記憶がある。最近では「既視感」とか「デ・ジャヴ」とか呼んでいる場合が多いようで、私や兼好法師だけの経験ではなく、心理学の上ではごく当たり前のことになっているようだ。もっとも、中年になって以来、その経験はとんと途絶えてしまった。年齢とともにそれを感じる感受性がなくなってしまったと考えると少し寂しい気もするが、「それは一種の病理現象で、私の感覚がやっと正常になって来たのだ」と勝手に解釈することにしている。


 小さなパソコンの中に入っている記憶の量や作業の能力にはいつも驚かされているのだが、考えてみれば、この小さな、しかも壊れやすい脳味噌の中に入っている知識や記憶の量も、これまた大変なものだ。そのメカニズムは既に十分解明されており、私が良く知らないだけのことなのだろうが、記憶のメカニズムと、その派生としての物忘れのメカニズムは、私にとっては依然として多くの謎を残している。(スペース・マガジン6月号所収)