不確定宇宙(スペース・マガジン8月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。
 昨夜は、北京オリンピックの開会式。深夜までテレビにかじりついていた。光と映像を中心としたハイテク技術人海戦術の複合に圧倒されるとともに、いくつかの感想も抱いたので、このブログに載せようかとも思ったのだが、スペース・マガジン9月号向けの素材として使えそうな気もして来たので、ブログの方は先送りすることにした。


   [愚想管見]  不確定宇宙            西中眞二郎

 
 今年も8月が巡って来た。8月と言えば、戦争、敗戦、そして原爆のイメージが強い。私の祖父は、たまたま所用で訪ねていた広島で原爆に遭って他界した。祖父の場合は既に高齢だったが、もっと若い人の場合を考えてみれば、その日がなければ彼らはその子孫を残して来ただろうから、ことは彼らだけの問題では終わらない。とりわけ長崎の場合、天候の関係で原爆投下地が小倉から長崎に変わったという話を聞いた記憶がある。もし予定が変わらなければ、10万人近い人々の生死が逆転していたことになる。その子孫や相互の組合せまで考えれば、おそらく100万人以上の人が、この世に生を享けたり享けなかったりしたということになるのだろう。それだけの人が入れ替わった日本が、現実の日本と同じものと言えるのかどうか。この世の中のすべての人々が、そのような怪しげな前提の上で存在していると言えなくもない。
 このような「怪しげな前提」は、何も原爆や戦争に限った話ではない。父と母が結婚していなければ、私は生まれて来なかったはずである。父と母が結婚したとしても、何かの状況がほんのちょっぴり変わっていれば、私の兄弟姉妹は生まれても、私は生まれて来なかっただろう。父と母の存在とて同様であり、そんなことを考えていると、私がこの世に存在できた可能性は限りなくゼロに近いものだったような気がして来る。
 子供たちの場合も同様である。私ども夫婦に別の子供が生まれていたとしても、私の側から見ればいっこうに差支えはないし、そもそもそんな可能性を真面目に考えたことすらないのだが、生まれた子供にしてみれば、自分が存在するか、それとも自分とは別の人格の兄弟姉妹が存在するかということは、それこそ根源的な違いである。あなた御自身の存在とて同様である。
 私が生まれたことも不思議だが、生まれた後も、生死を分かつような局面がこれまでになかったとは言えない。例えば、私の場合、終戦直後の韓国からの引揚げの際、玄界灘で台風に遭い船は大波に翻弄された。もしそのとき船が沈んでいたら、今の私がいないだけではなく、子供や孫もいなかったことになる。
 SF小説に、パラレルワールド物というカテゴリーがある。現実の世界とそっくりではあるが、実は全く別の世界だという種類のものである。現実世界とは異なる世界になるという可能性を常に秘め、無作為に選択肢を選びながら、宇宙は永遠の時を刻んでいる。早い話が、「私」というものが存在しない宇宙があったとしても、ちっともおかしくはないし、私以外の人にとっては、何ら痛痒を感じない。私自身にとっても、自分がそもそも居ないのだから、あれこれ考える余地すらない。
 「だからどうなんだ」と聞かれると、全く意味のない話ではあるが、そんなことを考えていると、自分という存在が、全く根拠薄弱な頼りないもののように思えて来る。しかし、そうは言っても、希有の確率の上に立ってこの惑星に誕生した以上、生まれて来なかった兄弟姉妹の分も含め真面目に生きて行かなければならないという気もしないではないが、所詮は酔余のたわごとと言うべきか。
(スペース・マガジン8月号所収)