短歌と俳句(その違いなどについての雑感)

               短歌と俳句

 
 中学生の頃から短歌をやっている。俳句も同様である。いずれも手掛けはじめたのは小学生時分だが、ややまともにやり出したのは中学生になってからである。いずれも60年近い昔の話であり、長さだけは人後に落ちない。結社に属することには何となく違和感があり、専ら唯我独尊、無手勝流の作者である。もっとも、俳句の方はとんと御無沙汰で、昨今は専ら短歌である。歌集も2冊刊行したし、そろそろ次の歌集に掛かろうかという気持もあるが、懐具合との相談で、まだ御神輿が上がらない状況だ。
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 先日、あるパーティーの席で、句集を出した先輩のH氏と雑談していたら、話に加わって来た別の男から「短歌と俳句とどちらがむずかしいか」との質問が出た。「俳句の方がむずかしい」とH氏は言う。「作るだけなら俳句の方が簡単かも知れないが、良いものを作るのは俳句の方がむずかしいのではないか。」というのがH氏の説である。私は少々異を唱えた。
 「私の目から見ると、俳句は、出来不出来にかかわらず、一応それらしく見える。そもそもどれが良い出来で、どれが悪い出来か、私なりの好き嫌いはあるにせよ、客観的な物差しが見つからない。ところが、短歌の場合、初心者の作品などを見ると、本人は短歌の積りでも、私の目から見れば短歌になっていないというものが結構ある。何が短歌で何が短歌でないかという物差しの持合わせはないが、感覚的にはそうとしか言いようがない」というのが私の説である。
 もちろん結論が出るような話ではなく、俳句に鑑賞眼を持つH氏と、短歌に多少の鑑賞眼を持つ私との違いということに尽きるのかもしれない。
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 俳句人口と短歌人口とどちらがどのくらい多いのかは全く知らないが、私の知人で句集を刊行した人は4人ばかりいるのに対し、歌集を出したのは、私の周囲ではどうやら私だけのようだ。「短歌」と「俳句」という月刊誌を角川書店が発行しているが、私がたまに覗く2、3の書店には、「俳句」は置いてあるが「短歌」は置いていない。そんなところから、俳句人口の方がかなり多いのではないかと勝手に想像している。
 もしそうだとすれば、やはり俳句の方が入りやすいということは言えるような気がする。
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 その席でのH氏の話に戻る。「良い作品ができたと思っていたら、似たような他人の作品があってがっかりすることがある。」とH氏は言う。短い詩型だけに、そのようなことが起こりやすいということは言えるのだろう。短歌の場合はそのような経験は少ないが、数年前の歌会始(御題「時」)の際、新聞に発表された皇太子の作と、投稿してボツになった私の作とが良く似ていたことがあった。テーマが同じであるのみならず、言葉自体も、第2句までは全く同じで、びっくりした経験がある。もちろんどちらかがどちらかを真似たというのはあり得ない話で、偶然の一致に相違ないと思うが、これが「類似」に関しての唯一の体験だ。
 私に比して遥かにお若い皇太子と同じような作品が生まれたことにつき、「まだ私の感性も若さを失ってはいないな」という妙な感慨を覚えた記憶がある。
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 以前読んだか聞いたかした記憶があるのだが、短歌集には作者の経歴等が書いてあることが多いのに対し、俳句集の場合にはそれが少ないのだという。短歌を作るのは叙述的人間で、俳句を作るのは感性的人間だとこじつけて考えれば、短歌を作る人間と俳句を作る人間との性格の違いの現われかとも思うが、もう一つには俳句と短歌自体の「詩」としての性格の違いもあるのではないか。
 俳句の場合、詩型が短いから、とてもすべてを説明的に叙述することは不可能であり、鑑賞の際、いわば余白を想像で埋めるという作業が必要になって来る。読者は単なる鑑賞者にとどまらず、余白を埋める創作者という要素も持つのではないか。これに対し、短歌は、ある程度説明的に叙述して、作者が言おうとすることを、できればすべて叙述することを求められているような気がする。したがって、俳句に比べれば、読者は単なる鑑賞者という性格が強いのではないか。
 そのこととも関連するのかと思うが、私に関する限り、俳句を読んだ場合、「その作者がどんな年齢の、どのような人か」ということはあまり気にならない。いわば、いったん自分に引き寄せて鑑賞するための「素材」という面が強いせいかとも思う。自分で補完するための素材であれば、作者のことを詳しく知る必要もないし、むしろ知らない方が自由に自分なりに「余白」を埋めることができる。
 ところが短歌の場合、「その作者の年齢や職業、住んでいる土地など」が気になる場合が多い。「素材」と異なり、私の想像を必要としない「完結した製品」だから、そのすべてを知りたいという気持になるのではないか。読み手の意識がそうであれば、作り手の方も、「自分の氏素性を明らかにしておこう」という意識になってもおかしくない。言い換えれば、氏素性を明らかにすることによって作品の背景を補完し、その作品の叙述を補うという意識が生まれて来るのではないか。
 全く自信のない独りよがりの感想であり、いささか牽強付会の感なきにしもあらずだが、何となくそんな感想を抱いたところだ。
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 またまた話は変わる。短歌にせよ俳句にせよ、読み手によって評価はまちまちである。朝日新聞の歌壇・俳壇の場合、4人の選者が全体の中から10首(句)ずつ選んでいるのだが、複数の選者に選ばれる作品はかなり少ない。短歌の場合は、300くらいの母数から、10個のものをランダムに選んだ場合の重複度とかなり似ている。俳句の場合はもっと激しく、複数の選者に選ばれる作品は極めて稀であり、数学的に言えば、1000以上の母数からランダムに10個を選ぶ確率に近い。このことについては、この4日付けのブログにやや詳しく書いたので、ここでは結論だけにしておくが、俳句の場合は、「評価がまちまち」という以上に、「ある選者が好む作品は、別の選者には全く評価されない」という積極的な排除関係すらあるような気がしてならない。
 はじめに書いた「俳句の良し悪しの物差し」自体が私には見えないということに、多少の根拠付けを与えているような気がしないでもない。
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 パーティーの席の雑談をきっかけにして、思い立って雑感を書いてみたのだが、我ながらまとまりの悪いものになってしまった。せっかく書いたものだからブログに載せようと思ってはいるのだが、どうも、「こじつけ」と「出来の悪さ」を露呈するだけの結果になりそうだ。