天下り考(スペース・マガジン3月号)

 今日は3月らしい陽気になった。最高気温は15℃を超えるとの予報だ。例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。



         [愚想管見]   天下り考              西中眞二郎


 官僚の「天下り」について、世論は厳しい目を向けており、現実の政治も排除の方向に進みつつある。実は私自身、いわゆる天下り官僚、渡り鳥官僚の一員だった人間であり、公正な第三者として発言できる立場にはないが、そうは思いつつも、昨今余りにも短絡的・一面的な議論が幅を利かせているような気がしてならない。


 「天下り」は、官民の人材交流という一面も持つ。もちろんその中身次第ではあるし、官民の「癒着」を避けるべきは当然として、これを一方的に排除することが望ましいのかどうか。例えば、企業の社会的責任を果たすために「社外役員」の登用が重要視されているが、長年公益を意識して働いて来た官僚OBの活用が望まれる場合もあるだろう。
 天下りを排除した場合に、公務員の処遇はどうするのか。定年まで役所勤めをするというのが一つの理想型だとは思うが、それで行政組織の活性化が図られるのかどうか。課長になるのが50歳を過ぎてからというようなことになったのでは、意欲のある働き盛りの職員の能力を活用できなくなる公算が大きいし、行政組織が機能不全に陥ったのでは、国民にとってもマイナスである。それを避けるためには、高齢者は第一線から退いて、定年まで別の形で勤務を続けるということが考えられるし、現にそのような構想もあるようだが、果たしてそれでうまく組織が動くのかどうか。そのような「元幹部職員」の存在が第一線職員の仕事を阻害しないかどうかにも疑問があるし、そもそもそのような「高齢の元幹部」にふさわしい仕事自体があるのかどうかにも疑問がある。さしたる仕事もない高級窓際族が税金の無駄遣いをするという結果になってしまうのではないかということも危惧される。
 官庁が天下りを斡旋することに対する批判も強いようだが、民間企業の場合でも、人事政策の一環として、子会社や関連企業への一種の天下りはごく当たり前のこととして行われている。公務員の側から見れば、官庁は、国の組織であると同時に、自分の雇用主でもある。雇用主が人事政策の一環として、その雇用者の将来について配慮することは、世間一般では当然のことだろう。官庁に限ってこれを否定すべきものなのかどうか。
 天下り批判の一つの論点に、「高額の退職金を何度も受け取る」という批判がある。ほとんどの場合、これはナンセンスな批判だと思う。退職金は、勤務年限に応じて支給されるのが通常である。したがって、勤務期間が短ければ退職金は少ないわけであり、通常の場合、「渡り鳥」の退職金総額は、1箇所に長く勤めた人を上回るとは思えない。


 天下りを全面的に肯定する積りはないし、目に余るケースがあることも否定しない。私自身、いつまでも役所に頼ることを潔しとしないという気持もあり、65歳になったのを節目に、任期を残して「天下りポスト」を去った人間である。それだけに、天下りや官庁の人事政策に対する批判的な目も一応持っている積りだが、余りにも一方的な視点からの天下り批判には、疑問を感じるのも正直なところだ。度を越した官僚叩きの結果、優秀な官僚が育たないということになれば、それは国民の将来にとっても不幸なことだと思う。(スペース・マガジン3月号所収)


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 紙数の関係もあり、掲載したのは以上だが、以下多少の補足をしておきたい。
 天下り論や公務員論の際気になることの一つは、比較の対象をどう見るかということだ。例えば「公務員宿舎の家賃は、民営住宅に比較して安過ぎる」、「退職公務員は、一般市民と同様にハローワークに行けば良いので、役所が再就職の斡旋をする必要はない」といった類の論である。これが間違っているとまでは言わないが、これらの論は、比較の対象が必ずしも適切でないという気もする。公務員の場合、役所は自分の「雇用主」であり、会社員にとっての「会社」と同じ一面を持つ。とすれば、公務員宿舎の家賃は、一般民営住宅とではなく、会社の社宅の家賃と比較する方が適切なのではないか。また再就職の斡旋にしても、「会社」の場合と比較する方が適切なのではないか。
天下り」の後に3億円以上の収入を得た官僚が話題になっている。3億円と言えばいかにも巨額のように見えるが、一流企業の役員であれば、退職金込みの年収は、多くの場合2千万円を下らないだろう。一流企業の社長ともなれば、5千万円を下るケースは稀なようだ。これと比較してみれば、仮に退官後10年間勤務したとすれば、3億円という金額は、必ずしも目をむくような金額ではない。その「天下り官僚」を一流企業の役員と比較することが適当かどうかという問題は残るが、それはその職務の内容や重要性を見た上で判断すべき問題であり、「3億円」が一人歩きすることは必ずしも妥当ではあるまい。
 私の場合、世間一般との比較で言えば、比較的恵まれていたと言っても良いのだと思うが、大学のクラスメートとの比較で言えば、「薄給に甘んじた」というのが正直な実感だ。より細かく言えば、若いころの収入は、比較的恵まれていたクラスメートの収入とは大きな格差があったし、退官直前になって、彼らの中の比較的足の遅い人にやっと追いついたというところだったと思う。比較の対象をどう見るかによって、評価は大きく変わって来るのだと思うし、私に関して言えば、「せめて大学の仲間と比較して欲しい」というのが正直な気持だ。
 
 
 天下り擁護論的な論旨になってしまったが、私は全面的な天下り擁護論者ではない。私の持論は、(以前にもこのブログに書いたと思うが)次のようなものだ。①定年(60歳)までは、残った者と大きな違いのない程度の収入を確保する。そうでなければ、組織の新陳代謝は図れない。 ②65歳までは、就職の斡旋をする。ただし、収入は一般の高齢者と同水準で良い。 ③65歳を過ぎたら、役所は全く面倒をみない。もちろん、本人の実力で職場に恵まれることまで否定する積りはないが・・・。
 私自身、その持論をある程度実行した積りだが、この物差しからすれば、相当甘い天下りがあることは否定できないし、そのことにはもっと批判があっても良いのだと思う。
 最低限の絶対値さえ確保されれば、残る問題は「相対論」である。相場が決まってしまえば不満は少なくなるが、「なぜあいつがそんなに貰って、おれはこんなに少ないのか」というのが、多くの場合不満の種になる。退職公務員の立場からすれば、「天下り後の不公平の是正」というのが大きなポイントだと思う。これとても、世間一般の通念からすれば、身勝手で贅沢な議論なのかも知れないが・・・。