事業仕分けは葵の印籠か

 一昨日、朝日新聞の「声」に投稿した原稿なのだが、おそらく掲載されることはあるまいと思い、このブログに載せることにする。掲載されないだろうという理由はいくつかある。第1に、同一人の投稿は、半年くらい間を空けるという慣行があるようなのだが、私の場合この夏に掲載されているので、多分ダメだろうと思ったということである。第2に、出した後で気付いたのだが、その日の政治マンガに「葵の印籠」が登場しており、この投稿のミソの一つが二番煎じになってしまったということである。第3に、これと類似の意見と、逆に仕分けを評価する意見とが、今日の「声」に掲載されたということである。これこそ決定的な理由だろう。
 そんなわけで、「声」は諦めて、このブログに席を譲った次第だ。


     事業仕分けは葵の印籠か

 


行政刷新会議事業仕分けが脚光を浴びているが、疑問に感じることがいろいろある。法的な権限や責任を持たず、必ずしもその問題に精通した専門家とも言えず、かなり恣意的に選ばれたとさえ思われる「個人」の集合が、しかも短時間の議論で、バッサバッサと一方的になぎ倒して行く。水戸黄門の葵の印籠を突きつけられた感じだ。
 見ている分には面白いかもしれないが、これが政府の最終的な意思決定になるのだとすれば、それこそ無定見な「丸投げ」のそしりを免れまい。しかも、与党のマニフェストに掲げられたような「重要政策」は、議論の対象外の聖域になっていると聞く。
 もとより、惰性で流されて来た既往の政策の見直しという意味では、ある程度乱暴な議論も許されるのかも知れないが、それはあくまでも「一部の有識者」による問題提起にとどめるべきであり、最終的な判断は、政府部内で更に詰めた議論を行い、政府として責任を持って下すべきものだと思う。むしろ、思い付きに近いものも含まれている与党のマニフェストこそ、このような第三者の意見を活用して、取捨選択すべき対象なのではないか。

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 ボツになった(はずの)投稿は以上なのだが、少し補足しよう。
 水戸黄門に葵の印籠を突きつけられた悪代官にも、「3分の理」はあるのかも知れない。ましてや、既存の政策は必ずしも「悪代官」とは限らず、5分か7分の理がある場合も多いだろう。それを、仕分け人の一方的な判断でバッサバッサと切り捨てられたのでは、たまったものではない。特に、かなり怪しげなものも含まれているマニフェストを「錦の御旗」とし、そのための財源を捻出しようという側面を持っている事業仕分け自体、バランス感覚の欠如という面も否定できないような気がする。
 今日新聞に掲載されていた世論調査の結果によれば、「事業仕分け」に対する世論の評価は高いようだ。たしかにその気持が理解できないわけではないし、「政権交替」に期待した世論の裏には、「多少乱暴でも既得権に手を付ける」という期待も含まれているのだろう。私とて、私の目から見てムダだと思われる項目が切り捨てられれば、快哉を叫ぶかも知れない。しかし、自分が評価している施策が、いとも安易に切り捨てられれば、「黄門様、御短慮!」と叫びたくもなる。 意地悪く言えば、いきなり権力らしきものを与えられて脚光を浴びた幼児が、高揚した気分になって舞台の上で刀を振り回していると思えなくもないし、詰めを欠いた劇場型政治の再来という気がしないでもない。
 結論として言えば、「事業仕分け」は、限られた時間と陣容で進められている「素人による床屋政談だ」という限界を認識しつつ、ひとつの問題提起として今後の検討の際に念頭に置いておくべきものだということになるのだろうか・・・。