「ん」は1音か――――定型詩の音数

 少年時代から短歌をやっている。短歌は、言うまでもなく、「五七五七七」という構成による定型詩である。同様に俳句は「五七五」、都々逸は「七七七五」だし、一般の定型詩の場合は「五七調」と「七五調」が典型だろう。こうして見ると、我々日本人の「詩」の定型には、5音と7音がしみ込んでいると言えそうだ。
 これは日本人に自然に備わった感性なのか、それとも教育によって人為的に植え付けられたものなのか。英語などの外国語を使用する民族にはそのような感覚はないように思われるし、素人の私には判断できないのだが、そうかと言って、人為的に植え付けられたものだとも思えない。そう言えば、漢詩は、五言絶句や七言律詩が典型のようで、5音と7音に関する言語感覚は、古く中国から伝わったものだと言えそうな気もするが、今となっては日本人のDNAの中に植え込まれたもののように思われてならない。いずれにせよ、このことは私の知識や能力を超える課題だし、また、そのことを考えるのがこの稿の趣旨ではない。
 短歌や俳句を作り始めたこどもや初心者は、指を折って音数を数えている場合が多いようだ。私の場合は、短歌をやって長いこともあってか、指を折らなくても音数は判るし、その感覚はしみこんでいるようだ。
 以上は、前置きであり、これから本題に入る。


 短歌の「五七五七七」は、「文字」の数ではなく「音」の数(「音節」の数と言っても良いのか?)だと思う。短歌その他の詩歌は、音読されることを念頭に置いたものだと思うし、音読しない場合でも、頭の中で黙読して、それを理解・鑑賞しているのだと思う。
 通常の場合は、仮名で書いた字数と音数は同じだから、このようなことを考える必要すらないのだろうが、字数と音数との間にギャップがあるケースもいろいろある。実は、それがこの稿の主たる問題意識なのである。


 「とっきょちょう」(特許庁)は、文字で書けば7文字だが、音で言えば「と・っ・きょ・ちょ・う」の5音だと思う。これを独断で一般化して言えば、「とっ」という類の促音は小文字の「っ」も1音として認識し、合わせて2音となるが、「きょ」という類の拗音は、合わせて1音として認識するのだと思う。
 「とっきょちょう」を短歌の冒頭の5音に充てても、字余りだという意識は働かない。なぜなのだろう。まず、拗音に関して言えば、私の語感に関する限り、「とっきちう」(こんな言葉はないが)は「とっきょちょう」と同様に5文字として認識される。語順を変えて、「きょとっちょう」や「とっきょうちょ」としても同様である。なお、「とっう」という音声はあり得ないだろう。他方、促音に関して言えば、「ときょちょう」では4音という認識になり、短歌の冒頭に持って来れば「字足らず」となる。
 
 次は、撥音(「ん」)である。「もんがいかん(門外漢)」、「しんかんせん(新幹線)」などは、文字は6文字だが、音としては5音と認識できそうである。ただ、拗音と違うのは、語順を変えて「もんがんいか」として言葉の途中に「ん」が来るようにすると、「ん」が独立した1音となって、6音として認識されるようだ。それとも関連するが、「新幹線」にもう1音追加して、「新幹線に」とすれば、これは明らかに7音である。つまり、「5+1=7」という不思議な数式が成り立つことになる。言うまでもなく、1字加えることによって、「ん」が言葉の最後ではなくなったせいなのだろう。<8日付け追記>最後の「ん」を外して「しんかんせ」とすれば、当然のことながら5音である。
 最後と途中とでどう違うのか。満足な説明はできないが、最後に来た場合には、「ん」という音は喉の奥で飲み込まれてしまい、明確な発音がされないという感覚があるのではないか。同じ「新幹線」でも、最後の「ん」を意識的にはっきり発音すれば、6音として認識されるような気もする。

 
 同じような構造の言葉でも、「みがきにしん(磨き鰊)」だと、5音よりむしろ6音の感覚に近い。「新幹線」の場合より、「ん」がより強調されているということなのだろうか。ちょっと違った視点から見ると、「新幹線」の場合、われわれの頭の中では「しんかん・せん」という意識で発音されて、最後の「せん」は1音と認識されて「4+1」になっているのに対し、「みがきにしん」の場合には「みがき・にしん」という発音感覚になり、「にしん」という3音が意識されるという違いがあるのかもしれない。換言すれば、「線」とか「漢」とか、最後に「ん」の付く独立した字句の場合に、「線」あるいは「漢」全体が1音として意識され、「ん」がゼロ音になってしまうと言えるのかとも思う。


 これと同類なのが、「ー」という長音符である。「スポーツカー」、「コンピューター」、いずれも5音という認識で良かろう。本来の日本語には「ー」はないのだと思うが、「きたきゅうしゅう(北九州)」や「ほっかいどう(北海道)」は、発音的には「キタキューシュー」、「ホッカイドー」に近いものであり、音数の認識としては同じように考えて良いのではないか。語順を変えたり、切り方を変えたりすると、意識が突然6音に変わる点も「ん」と同様である。例えば、「ほっかどうい」や「ほっか・いどう」は6文字という認識だろう。


 類似のケースに、言葉の最後に「い」が来る場合がある。「そうべつかい(送別会)」、「じょうりゅうすい(蒸留水)」等の類である。これも5音という認識になりそうだし、その性質は上述の撥音や長音の場合と同じように思われる。同じ構造の言葉でも、「ひごいまごい(緋鯉真鯉)」は明らかに6音だろうが、これも長音のケースと同じように、「そうべつ・かい」と「ひごい・まごい」という、頭の中での発音の切り方の違いのせいではあるまいか。


 以上、とりとめもない自問自答である。適当でない答もあるかも知れないし、ほかにも、私が考え落した類似の性格の字(音?)があるのかも知れない。いずれにせよ、児戯に類する話だし、詳しい方からご覧になればとっくに解明されていることなのかも知れない。


 なお、短歌の話からはじめたので、ついでに付言しておくと、私は「五七五七七」の字余りはあまり気にならないが、字足らずには強い違和感を持つ。なぜなのだろう。私の感覚で言えば、字余りは、早口で発音すれば(頭の中での黙読を含み)定型の中に収まるのに対し、字足らずはそのような器用な真似ができないということのような気がしている。
 ついでに、もう一言。冒頭で5と7に対する日本人のDNAについて触れたが、運動会のときなどでお馴染の三三七拍子、これも擬音化して言えば「トントントン トントントン トントントントン トントントン」であり、「5575」と、5と7に収まっているような気がする。なお、以上のメモの中で、私の感覚を一般性があるように書いている部分があるが、これはあるいは私のひとりよがりの感覚で、ほかの方には別の感覚があり、「自分の感覚では、新幹線は6音だ」と言われる方もおられるのかも知れない。


<9日付け追記>
 その後気付いたことなどにつき、少し追加したい。
 私の語感では、「お地蔵さん」も「地蔵さん」も、どちらかと言えば5音の感覚に近い。ということには、ちょっとした矛盾がある。先に書いたように、「最後に来た場合には、『ん』という音は喉の奥で飲み込まれてしまい、明確な発音がされないという感覚があるのではないか」ということになると、「地蔵さん」は4音として意識されそうなものだが、これは明らかに5音としての意識になっている。両者の「ん」の意識の違いは、いったいどこから来るのだろうか。暴論を半ば承知で結論めいたことを言えば、われわれ日本人のDNAの産物として、「無意識のうちに、5音として認識したいという欲求」が働き、本来6音であるはずの「お地蔵さん」も、5音として認識してしまうということが言えるのではないか。
 
これまでの結果を、無理を承知で結論めいたものにまとめれば、以下のようなことになるのだろうか。
1 拗音(カッ、キッ、クッ等):
  一般に2音として認識。(例:かっ飛ばせ、真っ昼間)
  あまり使用されないが、言葉の最後に来た場合には1音に近い認識の場合もありそうだ。(例:カッカッカッ)
2 促音(キャ、キュ、キョ等)
  1音として認識。(例:特許庁、教育者)
3 撥音(ン)
 置かれた位置等によって異なって来る。(1>ン>0)
 言葉の最後に来た場合
   最後が2音で表現される言葉のとき(例:新幹線):限りなく0に近い。
   最後が3音以上で表現される言葉のとき(例:磨き鰊):1に近い。
   ただし、発声(黙読を含む。)のしかたによって、0から1の間を連続的に揺れ動くのではないか。(上記2音、3音の違いはそのせいか?)
   以上は、いずれも5、7音の最後に来た場合の話で、3音や4音の末尾に付いた場合には、1音と認識される。(例:地蔵さん)
   言葉の中間に来た場合:1音と認識(例:勘九郎、本通り)
4 長音(ー)、長音と発音の近い音(こう≒コー、きい≒キー等)、「い」(送別会、総合計等)
   上記撥音(ン)と同じ。

 
ある方から、外来語が入って来た明治以降とそれより前とでは、変化があるのではないかとのご示唆を頂いた。そこでたまたま手許にあった蕪村俳句集(岩波文庫)をパラパラめくってみたら、「月天心貧しき町を通りけり」、「寒月や枯木の中の竹三竿(さんかん)」、「鶯や野中の墓の竹百竿(ひゃくかん)」という例が見つかった。もっとも、1000句以上の俳句の中の3句だから、「前例」と言えるのかどうかは判らないし、また蕪村自身は、あるいは字余りという感覚を持っていたのかも知れない。
 なお、このメモでは「音」という表記をしているが、「拍(モーラ)」という表記の方が的確ではないかというご指摘を、その方から頂いた。