期待から失望へ(スペース・マガジン2月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。今年は、シリアスな政治ダネはなるべく避けたいと思っているのだが、そうも行かない心境になり、またまた政治ダネになってしまった。もっとのんびりしたコメントを書きたいというのが正直な気持なのだが、果たしてこれからどうなることか・・・。


      [愚想管見]期待から失望へ            西中眞二郎

 
 鳩山内閣がスタートして半年近くになる。スタート当初は、その清新さらしきものにある程度の期待も持っていたのだが、その後の内閣や与党の動きを見ていると、失望の方が遥かに大きい。もともとすぐ眼に見える成果を期待していたわけではないが、政治資金問題、普天間基地問題、景気対策などの諸問題もさることながら、私の失望、更に言えば不安の最大の要因は、具体的な事案というよりは、むしろ政治のスタンスの問題だ。
 
 マニフェストの実行は相当後退した。私個人は、民主党マニフェストにはかなりの疑問を抱いていたので、必ずしもその後退に失望したわけではない。しかし、そのマニフェストを評価して民主党に投票した国民も多いだろう。それらの人々に、一体どういう言い訳をする積りなのか。「財源不足なので」というのは言い訳にはならないと思う。この厳しい財政状況の中で、そんなに気前の良い大盤振舞いができるわけがない。既存政策の見直しや無駄の排除と言っても、根拠も権威もない思い付きのスタンドプレーに近い「事業仕分け」が人目を引いただけで、大きな財源が生み出せないことは、はじめから判っていた話だ。それをいかにも実現可能なように示したマニフェストは、意地悪く言えば、選挙目当ての空手形だったとしか言いようがない。

 「政治主導」や「脱官僚依存」という看板も、一部政治家の勝手な振舞いの口実に使われているような気がする。例えば、先般の習副主席の天皇会見問題や内閣法制局長官を国会答弁から排除する動きなど、過去の経緯や蓄積を無視して、政府与党のトップの独断がまかり通るようにしようとする姿勢が露骨に現れている。特に、天皇会見問題についての小沢幹事長の傍若無人ぶりは、目に余るものがあった。ルールに従った対応、しかも外務大臣も承知し、総理すら納得していたらしい結論を、直前になってひっくり返すことを傲然と正当化し、更には天皇の意向らしきものを勝手に忖度する専横ぶりには、恐怖の念すら覚えた。有力政治家を動かせばどうにでもなるという印象を内外に与えることは、長い目で見た日中関係にとってもかえってマイナスだろう。

 省庁によっては、政策決定には官僚を関与させず、いわゆる政務三役だけで決めて行くというところもあるようだが、「政治主導」という言葉のはき違えだとしか思えない。官僚は政治家の使用人ではないし、過去の経験や知識も持っている。その識見を十分に生かした上で、最終的な政策決定を政治の場で行うということが政治主導の意味だと思うのに、一部の限られた「政治家」が勝手な振舞いをすることを「政治主導」だと認識しているとしか思えない場面も多い。

 「政策決定の政府への一元化」というお題目も、全く逆の方向に向かっているようだ。選挙目当ての戦術しか眼中にない一部の与党幹部の独断に振り回されている現状が、なぜ「政策決定の政府への一元化」と言えるのか。外部からの陳情や要請も与党に一元化し、自民党系の知事や団体などに対しては、まともに取り合わないとも聞く。また、官僚に対する外部からの説明や要望などにも、かなりの制約があるようだ。偏った一部の与党役員が、恣意的に情報や要望の取捨選択を独占するという状態が、開かれた民主主義の社会でまかり通るというのは全く不思議な話だ。

 不安は感じつつも、その政治姿勢にある程度の期待を持っていた政権交替だけに、「こんなはずではなかった」と裏切られた気持が強いのが正直なところだ。(スペース・マガジン2月号所収)