津波警報(朝日新聞「声」)
去る3月6日の朝日新聞東京版の「声」に掲載されたものを転載する。これまでの例では、東京版以外には載らないのが普通のようだが、今回は8日の大阪版には掲載されたようだ。
「声」は、一度掲載された人は、半年くらいは載らないのが通例のようだ。あまり出来の良いものだとも思わないし、比較的マイナーなテーマなので、あと半年間は投稿しても掲載のチャンスがないと思えば、今回の掲載は「痛し痒し」という気がしないでもない。なお、送付した原稿とは、内容も多少変わっているし(もちろん私も了解した上での話だが)、タイトルも全く変わっているが、もともと余り自信のある原稿でもなかったので、新聞に掲載されたものをそのまま載せることにする。
津波予想図の表示、工夫して 無職 西中眞二郎(東京都練馬区 72歳)
気象庁が南米チリ沿岸の大地震で発生した津波について、「予測が過大だった」とおわびをしたという。
だが、不確定要素の大きい津波の大きさを正確に予測することは困難だと思う。被害を少なくするために最悪の事態を想定するのは当然であり、「おわび」をすべき性格のものだとは思われない。謙虚な姿勢は評価するが、ことなかれ主義という気がしないでもない。
それよりも私が気になったのは、テレビの画面の右下に、津波の予想地図がずっと表示されていたことだ。このために画面の一部は常に隠されてしまい、私が見ていた囲碁番組では内容が理解しにくくなるなどの支障が生じた。
災害だから伝えるのは当然だが、例えば表示を数分おきにするなどの工夫をすれば、テレビ本来の機能を損なわない範囲内での伝え方も十分可能だったのではないか。テレビ局には再考をお願いしたい。
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載ったのは以上の通りだが、舌足らずの点もあるので、多少補足しておきたい。
私が一番強調したかったことは、気象庁の予報自体よりも、それについてのマスコミその他の取り上げ方に、工夫の余地があったのではないかということだ。マスコミが予報を伝えることは当然だが、「天下の一大事」のように、しかもさほどの工夫もないままに、各社が競って「最大限の力を発揮する」必要が果たしてあったのかどうかということだ。ことがらの軽重や緊急性に応じて、扱いを工夫することは十分可能だったのだと思うし、そういった意味では、今回のテレビの取り上げ方は、いささか過剰反応だったという気がする。
なお、今日の新聞によれば、警報が出た地域でも、避難した人は少なかったという。今回の場合は結果的には問題なかったわけだが、今回の過大な取り上げ方が「慣れ」に通じて、これからの報道が「狼少年」になってしまわないかが、少々心配なところだ。
<3月11日追記>
今日の朝日新聞の「声」に、私の意見に対する反論めいた意見が掲載された。一言で言えば「常時表示でなければ見落としの危険性もあるので、常時表示すべきだ」という意見だ。「見落としの危険性」は私も理解できないわけではないが、「数分おきの表示」という私のアイディアは文面でも明らからなように、あくまでも「例示」であり、表示の位置を適宜変えるとか、文字テロップと併用するとか、工夫の余地はいろいろあると思う。要は、危険防止という大目的と、「社会的責任を果たした」という自己満足(?)から、知恵を絞らないままに安易な道を選んでいるというテレビ局の姿勢に疑問があるという気持を捨て去ることができない。
もうひとつ、「緊急事態が迫っている」のだとすれば、「テレビ番組が見にくい」という程度の不自由さは甘受すべきだろうが、「10時間後に来るかも知れない」という警報を、今回のような形で常時表示する必要があるとは、どうしても思えないのだ。
「災害」、「安全」といったことがらが「錦の御旗」になってしまい、「最大限の対応をしておけば無難だ」という、一種の事なかれ主義になっているのではないかというのが、私の一番気になっている点でもある。
そんな補足意見を投稿しようかとも思ったが、掲載される可能性も小さいと思い、このブログへの追記にとどめることにした。