家・屋・手・者(スペース・マガジン4月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


[愚想管見] 家・屋・手・者                   西中眞二郎


 「師」と「士」の使い分けについて、以前に書いたことがある。今回は、呼称のことをもう少し広げて書いてみたい。公式の呼称としては、「師」と「士」がその典型だろうが、世間一般で使われている呼称は、まだまだある。

 まず「家」である。専門家、作家、画家、評論家、政治家等々、いわば世間的にある程度評価されている「専門家」という印象なのだろう。もっとも、偉い人だけではなく、「発展家」、「漁色家」、「空想家」など、どちらかと言えばマイナス・イメージのものもあるが、これとてもその道では出色の人という語感はあるのかも知れない。
 これが「屋」になると随分変わって来る。言うまでもなく、「屋」は、八百屋、魚屋といった商売から派生した言葉なのだろうが、そこから「それを飯の種にしている人」というところに広がって来たような気がする。「政治屋」と言えばいわば堕落した政治家で、政治で飯を食っているというイメージが強いだろう。「土建屋」、「英語屋」、「法律屋」等々、やや軽蔑や謙遜のニュアンスを含む言い方とも言えそうだ。更には、「しまり屋」、「何でも屋」まである。

 「手」はどうだろう。運転手、選手、騎手、砲手など、いわば「肉体技能者」というイメージになるのだろうか。助手、技手は専門家の一歩手前には違いないが、やはりまだ「技術者」までは行かない「技能者」という感覚があるのだろう。なお、技手はどういうわけか「ぎて」と読み、「技師」の一段階下の職種として、以前は公式な呼称としても使われていたものである。
 そのようなイメージを避けるためか、「運転手」については、最近は公式には「運転士」と呼ばれているようで、電車やタクシーの氏名表示では「運転士」と記載されている場合が多い。「騎手」が「騎士」に変わると、競馬の騎手から中世のナイトにがらっと変貌する。

 「者」はどうか。「犯罪者」があれば「受賞者」もある。「被害者」も「加害者」もいる。いわば価値判断のない無色透明な呼び名ということになるのだろう。私がマイカーを運転しているときには、「運転手」ではなく「運転者」ということになりそうだ。法令の上でも、「第一種主任技術者」といった類の公式の呼称にも用いられるようになったが、これは最近の社会の複雑化に応じ単純な呼称では間に合わなくなり、「技術者」という既存の言葉を借用してそれに箔を付けたものとでも言えるのだろうか。

 話を戻すと、「作者」には誰でもなれるが、「作家」や「芸術家」になることは容易ではない。もっとも、これには例外もありそうだ。学者、医者、役者、芸者、易者など、ピンからキリまであるにせよ、「無色透明」ではない立派な「専門家」と言えそうである。専門家だからと言って、いまさら学者を「学家」と言い換えるわけにも行かないだろうが・・・。

 言葉に馴染んでしまったわれわれの場合、それほど判断に迷うこともないが、これも日本語のむずかしさの一つとも言えそうだ。英語なら、多くの場合「er」か「ist」を付ければ済むのだろうと思う。(スペース・マガジン4月号所収)