3泊4日中国小紀行

6月の下旬、3泊4日で中国に行って来た。主目的は、上海万博である。今年は、我々が通産省(現在の経済産業省)に入省して50周年に当たる。同期の記念行事として、夫婦同伴で上海万博を見に行こうということになった。同期の池口小太郎(堺屋太一)氏が日本産業館の総合プロデューサーをやっており、彼から勧められたということもある。メンバーは都合16名である。
 上っ面を撫でただけの、駆け足旅行であり、さして意味のある感想を書くタネもないが、私的な記録という意味も兼ねて、雑駁な印象を中心として、断片的なメモを残しておこうと思う。


[羽田はローカル空港]
 出発、到着ともに、国内線中心の羽田空港虹橋空港だった。虹橋はそれなりに立派な空港だったが、羽田はおよそ国際空港と言える代物ではなく、ローカル空港以下という印象である。以前台湾出張で利用した際にも同じ印象を持ったのだが、その後国際線も少しは改善されただろうと思っていたのに、どうも全く変わっていないようだ。もちろん国内線の空港ビルは随分立派なものになったが、国際線の方は、モノレールの駅からバスで行く必要があり、通関のゲートをくぐるまではロビーらしきものもなく、腰をおろす場所もない。
 いずれ整備されるのだとは思うが、それにしてもお粗末な玄関口である。
(後注:それまでにも折々に報道されていたが、先日の報道によれば、立派なターミナルビルも完成し、新駅もできるようだ。10月に営業開始との話だ。8月11日記)


[上海は高層ビル林立]
 新しく開発された浦東地区のビルのことはある程度知っていたが、空港から浦東までの高速道路の道筋も、超高層ビルが林立している。新宿副都心が至るところにあるという印象だ。それが、概して個性のある派手な形を持って聳えている。その趣味をどう評価するかは人によってさまざまだろうが、ユニークな外観のビルが多いことは事実である。
 上海には、10年以上前に出張で1泊したことがある。浦東地区の開発途中で、浦東地区に高層ビルが立ち並びはじめていたことは覚えているが、その他の地区については、そのときどうだったかという記憶は定かでない。
 上海は地震がないという。それだけに、ビルの構造などもさほどの強度を要求されないらしい。そう言えば、高速道路の支柱なども日本に比べて遥かに細い。万一大地震があったら大変だと思うが、その辺は十分検討済みで自信を持っているようだ。
 とにかく広大な都市である。ガイドの黄さんによれば、上海の人口は1900万人だという。行政上の「上海市」の人口は、2000万人を大幅に超えるという。「上海市」の面積は、埼玉県と東京23区を合わせたくらいの面積だそうだから、その人口も不思議はないとも言えそうではあるが・・・。


[ガイドの黄さん]
 4日間付き合ってくれたのは、旅行社が手配したガイドの黄さん、30代後半かと思われる男性である。日本語はペラペラだし、中国との関わりのある事柄については、日本のことも実に詳しい。どうかすると、相手が中国人だということを忘れて会話をするくらい、日本や日本語に馴染んでいる。日本語は中国の大学で学んだということで、日本への留学歴はないという。もっとも、日本への出張は、通訳や旅行添乗で相当の経験はあるようだが・・・。
 

[人々々]
 上海は、どこへ行っても人波ばかりである。万博会場はもとより、駅も繁華街も雑踏に揉まれる感じだ。万博のために上海に人が集まっているせいもあるのだろうが。
黄さんに言わせると、『何しろ総人口が日本の10倍以上ですから』。謙遜のようでもあり、自虐のようでもあるが、同時に誇らしそうでもある。ついでに言えば、史跡の説明などの際、『日本が弥生時代のころです』という類のセリフが何度か出て来た。いかに中国文明の発展が早かったかという民族の誇りらしきものを垣間見たような気もする。
 人が多いところに加えて、皆さん声が大きい。両者があいまって、街は喧騒そのものである。声が大きいのは、中国語の発音構成のせいもあるような気がする。ご存じのように、中国語には四声という発音があり、同じ「あ」でも4種の発声があるという。その微妙な違いを使い分けるには、大きな声で明瞭に発声する必要があり、それが声の大きさに繋がっているような気がする。
 黄さんにしてから、日本語をしゃべっているときと中国語をしゃべっているときとでは、発声も声の大きさもまるっきり違う。
 上海の街は、人だけでなく車も多い。かつては自転車部隊が中国の名物のように見えた時期もあったが、上海の都心部では自転車はほとんど見かけない。もっとも、3日目の蘇州では自転車を結構見かけた。自転車が少ないのは、あるいは上海中心部の特殊事情かも知れない。
 自動車の運転は、概して強引である。それだけに、運転は概して上手である。とても入れそうにない狭い隙間にも、強引に割り込んで来る。駐車場などの整備が追いつかないため、そうでもしないとやりくりがつかないのかも知れない。


[浦東の森ビル]
 最初に訪れたのは、浦東の「金融中心」ビルである。上海で「中心」という標示を随分目にしたが、「センター」のことらしい。なるほど「センター」を自国語に翻訳すれば、「中心」ということになるのだろう。中国と日本は同文同種だというが、言うまでもないこととは言え、字体を含め書かれた言葉も随分違っているものが多い。もっとも、街の看板の大半は一応理解できるし、そのことに安堵することが多いが・・・。
 「金融中心」ビルは、東京の森ビルが所有するビルである。森ビルは、虎ノ門界隈の米屋さんがビルに手を出して戦後誕生した会社であり、私の若かったころは、虎ノ門の官庁街の裏手あたりに第1森ビルからはじまった小さなビルをいくつか所有していた。立派なビルを持つようになったのは、第20か25あたりの森ビルからではなかっただろうか。いまやアークヒルズ六本木ヒルズをはじめ、全国的に話題になる大きなビルを所有し、遂に上海にも、浦東のランドマークとして進出したものである。
 展望台に上るエレベーターの速度の速さには驚いた。どこの製品かと思って見たが、メーカーの表示はない。そう言えば、我が国でも最近はメーカー表示のないエレベーターが多いような気がする。展望台からの眺めは素晴らしいが、予想以上でもなく以下でもない。
 浦東から、豫園に向かう。「豫園」は古い庭園の名だが、我々が行ったのは、庭園自体ではなく、庭園の近くの古い中国風の盛り場である。『日本で言えば浅草みたいなものです』と黄さんは言う。私の印象は、「千と千尋の神隠し」に出てくる建物のイメージだった。それが、かなりの広がりを持って続いている。それにしても人が多い。『何しろ日本の10倍ですから』と黄さんがまた言う。
 伝統的な街並み越しに浦東の高層ビルが見える。


[雑技団]
 夜、上海雑技団を見に行く。会場は国技館を半分に切って、全体を広げたような構造だ。その芸の素晴らしさにあらためて感嘆する。満3歳くらいから親元を離れて厳しい訓練を受けるのだとも聞くが、とても人間技とは思えない体の動きだ。児童保護といった視点からすれば問題があるのかも知れないが、無邪気に見ている分には、素晴らしいの一語に尽きる。
 ほかの場所にも共通の話だが、出口の表示が「安全出口」となっている。なぜ「安全」と断る必要があるのか疑問に感じていたのだが、「非常出口」との対比だと後になって気付いた。「通常の場合の出口」という程度の意味のようだ。


[万博] 
 2日目は、メインテーマの万博である。概して建築と映像中心で、これまでの日本での万博や、ディズニーランドその他のテーマパークで目が肥えているせいか、さほどの驚きはない。それにしても、会場は広大である。また建造物も中国人建築家の設計・デザインによるものが主体だという。北京オリンピックに続く国家的プロジェクトだが、中国人の智恵と技術の結集という意味では、オリンピックより遥かに前進しているという。
 「万博」にせよ、「上海」にせよ、こうしていると、中国が発展途上国だ(少なくともごく最近までは)ということをついつい忘れてしまう。そうは言っても、広大な国土ということもあり、個人や地域の格差は想像を絶する大きさだと思う。僻地の人が万博会場を訪れたとすれば、これが自分たちの暮らしの延長線上にあるものだという感覚を、果たして持てるのだろうか。それとも、別世界の竜宮城に見えるのだろうか。


[新幹線]
 3日目は、蘇州観光に向かう。行きは新幹線で、1時間弱の旅である。例によって駅頭は人の波である。新幹線は日本技術を取り入れたものだと聞くが、日本のものと大差ない。
 話のタネにトイレに入ってみたら、洋式のもののほかに中国式のものがあった。和式に似ているが、前のキンカクシに相当するものがない。珍しいと思って写真に撮ったのだが、女性に言わせるとレストランなどのトイレもそのスタイルが多いとのことで、写真を見せてもちっとも驚いて貰えなかった。
 トイレの入り口の表示は、「使用中」と「空き」だと思っていたら、この新幹線には「故障中」という標示もあった。それだけ故障が多いということなのか、それとも謙虚で親切なのか。トイレと言えば、用を足した後の手洗いの水が出ない。良くあることだという。
 

[蘇州夜曲]
 蘇州の古い街並みの一角から船に乗り、水の都蘇州の運河を行く。我々のメンバーでちょうど満席になる程度の小さな船で、もちろん貸切りである。最近では生活排水などの直接の放流はないというが、水は白っぽく淀んでいる。ヴェネティアの黒っぽい淀みとは随分印象が違う。
 通り過ぎる家並みを眺めながら、「蘇州夜曲」という歌を知っているかと黄さんに聞いたら、『もちろん知っています。「上海帰りのリル」同様、戦前の歌ですね。』と言う。勧められて小声で歌ったら、黄さんも一緒に声を出したのだが、黄さんのメロディーは途中で「無錫旅情」に変わってしまった。『蘇州夜曲は李香蘭が歌った歌で・・・』と黄さんの説明が付き、李香蘭こと山口淑子の話から、東洋のマタハリこと川島芳子にまで話は及ぶ。蘇州夜曲の歌い手は渡辺はま子だったような気もしたので帰ってからネットで調べてみたら、李香蘭主演の「支那の夜」で李香蘭が歌ったが、レコード化の段階でレコード会社との関係で歌手は渡辺はま子になったのだとある。黄さんの説明も私の記憶も、間違ってはいなかったわけだ。
 ついでに言えば、「上海帰りのリル」は、戦後津村謙が歌った歌であり、これは黄さんの錯覚である。もっともいつだったかテレビで「戦前の歌」だと紹介された記憶もあり、日本人でも間違えているケースがあるようだ。それだけ「戦後は遠くなった」ということか。それやこれやにつき、後で黄さんへの礼状を兼ねた手紙に書き添えた。
 全く関係のない別の話だが、私のカラオケ愛唱歌の一つに、上海をテーマにしたディック・ミネの「夜霧のブルース」という歌がある。これも戦前の歌と錯覚しそうな内容だが、戦後昭和23年の「地獄の顔」という映画の主題歌である。「地獄の顔」の内容は知らないが、主演は片岡千恵蔵だと長年思い込んでいたのだが、このブログに書こうと思って調べてみたら、主演は水島道太郎だった。他人の思い違いを咎めることはできないと改めて思った次第。
 虎丘はじめ名所を見て、新市街で昼食。旧市街とは全く趣の違う大都市だ。『蘇州は小さな町ですから』と黄さんが言っていたので、黄さんに聞いてみたら、人口100万程度だと言う。流石に日本の10倍の人口の国は、言うことが違う。
 上海への帰路は、高速道路をバスで走る。途中に、大きな工業地帯と住宅団地がある。「昆山経済技術開発地区」との標示が見えた。


[大規模結婚式と光の街]
 夕食は浦東地区での会食。レストランに入ったら、結婚式のパーティー会場を通り抜ける構造になっていた。広い会場で、人も多い。ざっと勘定したら、600人くらいの人数だ。これもバブル現象か、それとも中国の国民性か。
 レストランから、対岸のバンドが見える。古くから租界として発展した地域である。きれいにライトアップされている。観光船が黄浦江の水面を渡るが、いずれも派手な広告を光らせている。
 堺屋太一氏から聞いた話だが、中国人に東京を案内した際、低層の建物が多いということと、街が暗いというのが彼らの感想だったそうだ。確かに、上海の街のネオンは明るい。それぞれが一歩でも先に出ようと妍を競っている感がある。
 こうして見ると、中国が発展途上国であるということと同時に、社会主義国だという体制の違いも忘れてしまいそうになる。『中国は政体は社会主義だが、経済は資本主義だ』という話も良く耳にするが、あるいはそうかも知れないという気もするし、『そう単純に割り切って良いのかどうか、一時的にあだ花が咲いているだけではないか』という気持も抑えることが出来ない。
 そう言えば、『中国は法治主義ではなく、人治主義の国だ。人によって政策が変わり、安心して投資もできない。その「人」は政府トップの場合もあるが、末端の担当者の場合もある。』という言葉を、以前随分聞いた記憶があるが、最近ではその話はあまり聞かない。中国が変わったのか、それともわれわれが鈍感になり、あるいは油断しているのか・・・。私には判らないことだらけである。もっとも、日本も、小泉改革以来、「法治主義ではなく、人治主義の国になった」ような気がしないでもない。以前は制度の変更の場合など、随分慎重な議論が交わされたような気がする。それが小泉改革以来、トップの意向次第で、いとも簡単に制度の改革が行われる。民主党政権とて同じである。たしかにスピード感はあるが、トップの意向次第で無定見に変わる昨今の我が国政治は、「人治主義国家」になってしまったという印象を抱くことも多い。



 上っ面を撫でただけの旅であり、感想である。また、紀行文としては、省略した部分が多く中途半端である。加えて、今度の旅と直接関係のない感想も多いが、一つのメモとして残すことにしようと思う。