さまざまな岐路(大学クラス会雑誌より)

 毎年1回の大学のクラス会(独遊会)が、今日東大の本郷キャンバスで開かれた。独遊会というのは、昭和31年に東大教養学部文科1類に入学し、L1・5Bという語学のクラスに属していた60名程度の会である。今年の場合、震災の後でどうするか幹事も悩んだようだが、平常心も大事だということで予定通りの開催になった。
 ところで、一昨年春の会で、「在学中に出したクラス会雑誌『うてな』の第2号を、卒業50年を記念して作ろう」との提案があり、よせば良いのに「編集から印刷製本まで、私がやろう」と引き受けてしまった。結果はまずまず好評であり、「来年も3号を作ろう」という話になったところまでは良いとして、またまた出しゃばって製作を引き受けてしまい、本日めでたく一同に配布したというのが、これまでの経過である。
 以下、その「うてなⅢ」に掲載した私の小文をご披露したい。
 

         さまざまな岐路
                          西中 眞二郎


 人生にはさまざまな岐路がある。当然のことながら、父と母が結婚していなければ私は生まれていないし、往時の父と母の行動がほんのちょっぴりでも違っていれば、私の兄弟姉妹は生まれても、私は生まれて来なかっただろう。そのことは父や母の存在自体についても言えるはずで、そんなことを考えてみると、これこそ人生(?)最大の岐路で、むしろ生まれていなかった方が自然な結果だったと言えなくもない。もっともそこまで考えてしまったのでは、いまさら「岐路」を思い起こす意欲もなくなってしまうので、この際人生の出発点には目をつむることにしよう。
 
 私は、母方の実家を継ぐため、幼時に実母の姉夫婦の養子になった。もしそのことがなければ、私の人格形成は大きく違っていただろうし、今の「私」がそのままの形で存在していたかどうかは疑わしい。
 養父は薬剤師で、終戦まで朝鮮で官庁勤めをしていたのだが、「役人は法学部を出て、高文をとっていなければダメだ」と何度か聞かされた記憶がある。そんなところから、「東大法学部を出て官庁勤めをする」というコースが、私の頭の中に刷り込まれてしまったような気がする。そうは言っても、「文学部を出て大学教授になる」という「脇道」をマジメに考えた時期もあったが、何となく「刷り込み」と同じコースを選んでしまったような気がしないでもない。
 もっとも、東大に合格するかどうかというのも一つの岐路ではあったし、合格したとしても、駒場で違うクラスに組分けされていれば、独遊会の諸兄とのこうした形での交遊はなかったはずだから、これまた大きな岐路だったということになるのだろう。


 「刷り込み」の影響もあってか、公務員の道を歩むことには、ほとんど迷いはなかった。もっとも、経済官庁より、厚生省や労働省といった社会関係の官庁の方への関心が強く、もし公務員試験の成績がそこそこだったなら、おそらくそっちの方のコースを歩んでいたのだろうと思う。ところが、思いもよらぬ好成績で合格してしまったものだから、世間の風潮に流された感もあって、通産省という職場を選んでしまった。それが賢明な選択だったのかどうか、もとより知る由もない。


 就職と並ぶ、あるいはそれ以上に重い岐路は、結婚である。私の実父は海軍の軍人で昭和19年に戦死したのだが、実父の戦友と家内の伯母との住まいが近く、家族ぐるみの付合いがあったようで、そんなところからそのふたりの間で私と家内との見合い話が持ち上がったというのが話の発端だ。考えてみれば、実父の戦友と私とは、見合い話の前には1度か2度お会いしただけの浅い付合いである。その程度の細い糸から一つの大きな流れが定まり、一つの人生が生まれて来るというのも不思議なものだ。ついでに言えば、冒頭に書いた話の蒸し返しだが、私と家内が結婚していなければ、現在の息子や娘も生まれて来なかったはずであり、彼らにとっては、これこそが人生最大の岐路だったということになりそうだ。


 通産省入省後は、内閣法制局への出向を含めさまざまなポストに就いて来たし、それぞれが「岐路」だったのかも知れないが、人生という大きな流れの中で言えば、多分とるに足りないものだったのだろう。
 40代半ばのころ、トップ要員として内閣法制局に再出向する気はないかとの打診を受けた。1省の立場にとらわれず仕事のできる重要な組織であり、順調に行けば内閣法制局長官というポストも視野に入る話である。決して悪い話ではないのでこれをお受けした。ところが、数年後のいざ実行という時期になって、他省との調整の結果その話は流れてしまい、結局50歳直前での退官という結果につながってしまう。
 その間、福岡通産局長在勤中に、北九州市長選出馬の打診を地元経済界から受けたこともある。内示に近い形で内閣法制局の話を受け続けていた身としては、お断りするしかない。仮にこれを受けていた場合どういうことになったのかは判らないが、その前後の時期あたりには、人生の岐路がゴロゴロ転がっていたような気がしないでもない。


 退官後は、企業や団体の役員を四つばかり経験した。評判の悪い「天下り・渡り鳥官僚」の典型のようなものだが、本人にとっては決して楽な話ではない。知らない世界で、知らない人たちから「よそ者」という目で見られながらの仕事は、その職場にもよるのだろうが、結構苦労も多かった。それに、「天下り」や「渡り鳥」の場合、相手のある話なので、計画的な人事はむずかしい。たまたまある会社からオファーがあったといった偶然の要素に左右される要素も大きく、それだけに「天下り」や「渡り鳥」は、まさに「岐路」という言葉にふさわしい分かれ道なのかも知れない。
 65歳になったのを契機に、自由にものを言いたいという気持や、いつまでも役所の傘の下にいるのを潔しとしないという気持もあって、任期途中で南関東自転車競技会の会長の職を去ったのだが、これが仕事関係で唯一の自分の判断によって選んだ岐路だったようにも思う。


 こうして振り返ってみると、私に限った話ではないだろうが、人生には随分いろんな岐路があったのだなということをあらためて感じる。もっと遡ってみると、終戦後韓国から引き揚げる際、玄界灘で嵐に遭い、私の乗った船は沈没寸前の状態になっていたようだ。もしそのとき船が沈没していれば、当然今の私は存在しないわけで、これが生まれ落ちて以来の、最初かつ最大の岐路だったのかも知れない。


 最後に、比較的最近作った腰折れを2首
 
 引揚げの途次の嵐を思いみれば我が人生は余生やも知れず
 幸運も挫折もあまた抱え来し我が原点はいずこにありや
                        (うてなⅢ所収)