大震災で考えたこと(スペース・マガジン5月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


  [愚想管見] 大震災で考えたこと      西中眞二郎


 思いもよらない大震災が起こった。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた方々に心からのお見舞いを申し上げたい。ご当地日立市や周辺の方々も、相当の被害を受けられたようだが、一日も早い被害からの立ち直りをお祈りしたい。東京在住の私の場合、棚の花瓶が落ちて壊れた程度で、格別の被害もなかったが、大震災以来、時間の流れがこれまでとは変わって来たような、一種の虚脱感を感じているところだ。
 地震津波の直接の被害もさることながら、原発の事故が不安を増幅させた。地震津波の直接の被害は、その深刻さはさておき「済んでしまったこと」であるのに対し、原発による被害は現在進行形の被害であり、それだけに不安も大きい。しかも、震災による直接の被害でないだけに、原発が怨嗟の的となることは当然だろう。
 ただ、ここで指摘しておきたいことは、東京電力も一面ではこのたびの震災の被害者だということと、その被害の拡大を防ぐために全力を尽くしつつある当事者だということだ。そういった意味では、現時点に関する限り、東京電力は基本的には激励すべき相手であり、その社員に対する嫌がらせなどは論外だと言うほかない。また、その他の関係者を含め、現在の緊張感、使命感をどこまで持続できるのかも気になるところだ。
 今回の津波の規模は、千年に1度のものだという。我々の日常生活で言えば、千年に1度ということは、「まずあり得ない」に近い事象であり、「まあ良いだろう」という妥協の枠の中に入ってしまう性格のものだと思う。しかし、原子力という巨大装置に関しては、安易な妥協は許されないものだと思うし、多くの方々に影響を及ぼしたことが非難されるのは当然のことだ。もっとも、その責めは、東京電力だけではなく、そのような設備を容認して来た政府、学者その他の関係者すべてが負うべきものだと思う。立場により人によって、その責めの濃淡や内容が異なることは当然だが、通産省勤務時に原子力行政に携わったことのある私も、その一員であることに相違ない。もとよりこれらの人々とて、問題意識に欠けていたわけではないが、「まあ良いだろう」という許容の範囲がゆる過ぎたことは否定できない。「もう少しの備えをしておけば・・・」という深刻な反省と後悔を、痛いほど感じているのも彼らだと思う。
 もうひとつ、放射能に対する漠然とした不安から来る風評被害や現地への物流の停滞、それに買いだめなどの問題がある。これらは、心情としては理解できるものの、関係地域の人々に対する間接的な加害行為とも言えるものであり、ぜひ冷静かつ賢明な対応をお願いしたいものだ。
 中長期的にこれからどうすれば良いのか。人間の制御の及ばない可能性を持つ原子力を捨てるのも一つの選択肢だろう。他方、「これでまた知見が増えた」と考えて、より安全な原子力に取り組むのもあり得る道だろう。いずれにせよ、人類の叡智を傾けて今後じっくり取り組むべき課題であり、今回の大震災は、原子力やエネルギーに限らず、人類の文明観、世界観に根源的な問題を投げかけたと言っても良いものだとすら思う。(スペース・マガジン5月号所収)