リスクとバランス(スペース・マガジン2月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


   [愚想管見]   リスクとバランス         西中眞二郎
 

 いずれも東京での話だが、福島原発による放射能を避けるために海外や沖縄に転居した人がいるという。また、こどもが外出から帰るたびに、ミネラルウォーターで全身を洗う母親がいるという。人によって受け止め方はさまざまだろうが、現在の時点での私の目から見れば、いささか過敏な反応だと思われてならない。
 たしかに、現在問題になっている低レベルの放射能による被害の可能性は、完璧には解明されていないようだし、不安感を抱く人がいても不思議はない。しかし、私の理解によれば、シビアな見方をとった場合でも、たとえば癌に罹る人が100人から101人に増えるかも知れないという程度のレベルのものだと思う。1人増えることを軽視するわけではないが、喫煙やストレス、運動不足や野菜不足、あるいは過労や貧困、生活環境の変化などの他の要因によっても、これを大幅に上回る増加があり得る性格の数字であり、社会生活におけるさまざまなリスクの度合いを比較して、バランスのとれた判断をすべきものだと思う。最終的には、それぞれの人の価値観、人生観に帰着する話ではあろうが・・・。
 

 昨夏の話だが、京都の大文字焼きに東北の木材を使うことへの反対や、福島産品のフェアの福岡開催への反対があり、いずれも断念に追い込まれたと聞く。「東北産の野菜を食べることは毒を飲むようなものだ」とテレビで放言した学者もいたと聞く。更に最近の報道によれば、東北からの瓦礫の持ち込みに対する拒絶反応も依然として強いようだし、バランス感覚を説いた首長に対して「人殺し」という罵倒があったケースもあると聞く。
 中身にもよるが、ここまで来ると、「それぞれの人の価値観、人生観」の問題だとは言っていられなくなる。これらの言動は、多かれ少なかれ被災地の人々に悪影響を及ぼす問題であり、特に瓦礫の受入れに対する反対などは、被災地の復興を妨害する行動とも言える。しかも多くの場合、これらの反対運動は、地元の人よりは、むしろネットなどによって誘発された他の地域の人々によるものが多いと聞く。地元の人々であれば、「過敏な反応だ」という批判の枠の中に納まる問題かも知れないが、地元以外の人々による反対運動ともなると、その理由や動機が全く判らない。「反原発」ということなら理解できるとしても、被災地の瓦礫処理をはじめとする復興支援活動に対する反対が「反原発」につながるとは思えない。ご当人は「正義の味方」の積りで行動しているのかも知れないが、私の目には、単なる「騒ぎ屋」としか見えないし、極端な場合には一種の犯罪行為だという気すらする。


 原発の「安全神話」は崩壊したが、その反面、新たに原発原子力の「危険神話」が誕生したように思われてならない。もとはと言えば、原子力に関する政府や学者の言動が信用されなくなり、「何が真実なのか」という判断基準を多くの方が失っているという事実が根底にあるのだと思うし、その責任は原子力関係者のこれまでの言動に帰するものだとは思うが、それだからと言って、余りにもバランスの取れない言動に対する厳しい批判の目を失ってはならないと思う。(スペース・マガジン2月号所収)