生じる可能性も考慮すべきだ(原発再稼働)

 先日の朝日新聞の「声」に掲載された記事に異論があったので同紙に投稿したのだが、現在のところどうも載りそうにないので、このブログに譲ることにしたい。


        「生じる可能性も考慮すべきだ」


 大飯原発の再稼働に関し、「ブラックアウト(大停電)より原発事故の方が悪影響が大きい」との投稿を読んだ。その通りだと思う。ただし、そこには、「生じる可能性」の視点が抜け落ちている。
 再稼働がない場合、国民経済や国民生活にある程度の影響が出ることは確実である。ブラックアウトが生じる可能性も小さくはないと思うし、その場合に人命に影響が出るような可能性も、無視できないレベルのものだと思う。
 他方、原発事故が起きる可能性は、ゼロではないにせよ相当小さいものであることは間違いあるまい。
 両者を比較する場合、生じた場合の被害の大小だけでなく、それが生じる可能性の大小を含めて総合的に考えるべきだと思う。
 なお、総理の責任にも触れられているが、再稼働するにせよしないにせよ、専門知識や技術的判断を踏まえた上での政治的判断は必要だし、その是非は意見が分かれるにせよ、政治的判断そのものを否定することは適切ではあるまい。

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 字数の関係上、投稿したのは以上なのだが、ちょっと補足しておきたい。
 前段の方は、至って当然の話だと思うのだが、結構「可能性の大小」を無視した議論がまかり通っているような気がする。
 最後のなお書きは、「総理の責任」に関し、「刑事責任も負う覚悟があるのか」という論旨の部分に関連してのコメントなのだが、「刑事責任」というのは、かなりナンセンスに近い議論だと思う。もちろん、ケースによっては刑事責任を問われる場合もあるだろうが、刑事責任ということに限って言えば、再稼働しないために停電が起き、そのために被害が生じた場合の方が、むしろ刑事責任に馴染むのではないか。「再稼働の決断」と「事故」との間には、「自然災害」という不確定な大きな要素が介在するだろう。それに比して、「再稼働しない決断」の場合には、それが大なり小なり各種の被害に直接つながる可能性が高い。この場合も、刑事責任を負えということにならなければ論旨は一貫しないと思うのだが、そのような議論は全く耳にしない。そういった意味で、この場合の「刑事責任」という論旨は、採りにくい説だと思うし、そんなことを言えば、どちら向きの「決断」もすべきではないということになってしまう。
 もっとも考えようによっては、「刑事責任」で済むのなら、決断をする当事者にとって、こんな気楽なことはない。政治責任や行政責任は、当事者にとっては刑事責任よりはるかに重いものだと思うし、「いざとなれば刑事責任を負えば良い」という免罪符(?)があれば、決断は遥かに容易なものになるような気もする。