私の8月15日(スペース・マガジン8月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。実は、同じような内容のものを、数年前のこのブログに載せたことがあるので、あるいは「もう読んだ」という方がおられるかも知れない。



       [愚想管見] 私の8月15日           西中眞二郎

 昭和20年8月15日、私は朝鮮の京城(現在の韓国のソウル)に父母と3人で住んでおり、国民学校(現在の小学校)の2年生だった。その年の新学期から、上級生は学童疎開で農村に移っており、われわれ下級生もいずれ疎開をと言われながら、まだ京城に残っていた。父は薬剤師であり、京畿道の道庁(内地で言えば県庁)の衛生課の技師をしていた。
 京城は、どういうわけか空襲には遭わなかった。警戒警報は随分出たし、空襲警報も何度かは出たが、どこかに行った帰りの米軍機がドラム缶を落して行き、それが専売局の屋根を壊したというのが、最大の被害だったと記憶している。食料不足等も内地ほどではなく、生活にはさほどの支障はなかった。広島と長崎に「新型爆弾」が落とされたこと、ソ連が参戦したことなどは、もちろん報道である程度は知っていた。
 8月15日正午に天皇陛下の放送があるということは事前に知っていたし、もちろん、正午の放送は聞いたが、ラジオの雑音が多くて十分には聞き取れず、母にも私にも、「終戦詔勅」だということは完全には理解できなかったように記憶している。ラジオの雑音が多かったのは、我が家のラジオの性能が悪かったのか、それとも当時の京城での放送事情に理由があったのかは知らない。
 放送が終わってしばらくして、近所の小母さんが駆け込んで来た。我が家の玄関で母に向かって「奥さん、放送聞きましたか。日本は負けたんですよ。」と叫んで、床に突っ伏して泣いた姿を覚えている。色白の大柄な人だった。
 父は、「戦争に負けたら、みんな自決するんだ」と常々言っていた。我が家には日本刀が一振りあったし、青酸カリもあった。父の言葉が本心だったのか、単なる建前にすぎなかったのか、今となっては知る由もないが、当時の私は、父の言葉をまともに受け止めていた。「父が帰って来たら、みんなで死ぬんだろう」という不安な気持でその日の午後を過ごしたことだけは覚えている。
 もっとも、死を恐れる気持は、現在想像できるほど強いものではなかった。私が幼かったせいもあるのだろうが、おそらく、当時の国民一般の異常な心理状態が「死と隣合せ」という極限状況に置かれていたということが、その最大の理由だったのではないかと思う。戦災に遭わなかった京城だが、「外地」という意識が、それに拍車をかけていたのかも知れない。
 父はいつもより早く、4時か4時半頃に役所から帰って来た。私は真っ先に父に「今日死ぬの?」と聞いた。それが異常な会話だという意識は、私には全くなかった。父は「もうちょっと様子を見よう」と答えた。私は父のその言葉にほっとした。しかし、「生と死」という両極端から想像できるほどの大きな安堵感ではなかったように思う。いわば、とりあえず問題を先送りしたという程度の安堵感に過ぎなかったような気がする。
 その後、親子3人が何を語り、どうやって夜を過ごし、何時頃眠ったのかといったことは、全く覚えていない。それ以来、「死」の話は誰の口からも出ず、私の意識からも次第に消えて行った。
 私どもが故郷に引き揚げたのは、9月の末から10月にかけてである。嵐に遭って船が難破しかけたなどの苦労話は省略する。なお、私は幼時に母方の実家を継いで養子になったので、ここで言う「父・母」は「養父・養母」のことなのだが、そのころはまだそのことは知らなかった。(スペース・マガジン8月号所収)