新聞記事(スペース・マガジン3月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。

  
     [愚想管見] 新聞記事               西中眞二郎

 
 今にはじまったことではないが、新聞は随分ぶ厚くなった。終戦直後の新聞は、たしか1枚(裏表の2ページ)だけだったように記憶しているが、現在では通常の日刊紙の朝刊は、40ページ前後が普通のようだ。「三面記事」という言葉も、全く実体に添わないものになってしまった。
 もっとも、ページ数が増えたということと、内容が読みやすく充実したということとは、必ずしも同じではなさそうだ。内容が詳しくなったことは間違いないし、あれだけの欄を埋めるための記者や編集者の方々のご苦労はさぞかしだと思うが、それだけにかえって紙面の質や密度が落ちている場合もありそうな気がする。
 「スポーツ記事が一番充実しているのは、アカハタと日経新聞だ」という話を、以前聞いた記憶がある。一種のジョークかも知れないが、スポーツにウェイトを置いていない両紙だけに、その関連記事の量は少ない。それだけに、重要な記事がコンパクトにまとまっているので、読みやすいしポイントが理解しやすい。逆に、スポーツ記事が数ページにわたる一般紙の場合、かえって印象が散漫になり、肝腎な記事を見落とすことにもなり兼ねない。スポーツに限らず、詳しいだけにかえって読みにくく、理解しにくいというケースも出て来るのではないかと思う。
 記事の内容や大小、位置や見出しは、どのような基準で判断されているのだろうか。基本的には、「重要なもの」を大きく扱うということだろうが、その具体的な物差しは、新聞によって異なる場合も多いだろう。自社の特ダネなどは、本来の重要性以上に大きく扱う場合が多いだろうし、自社の主張の裏付けになるような記事は大きく、そうでない記事は小さくなりがちなことも、否定できないだろう。もっと判りやすいケースで言えば、自社が主催するスポーツその他の催しの記事が大きくなり、ライバル社が主催する催しの記事が小さくなるのも、人情から言って当然だとも思われる。
 「重要なもの」と言っても、その判断は単純ではない。ひとつのポイントは、「読者の関心」の大小だろうし、新聞も営利企業である以上、読者の好みに合わせるということを、頭から否定することもできないだろうが、それが本当に「重要」なことと両立するとは限らない。一番単純な例は死亡記事である。新聞にもよるのかも知れないが、私の物差しで見る限り、芸能や文化関連の人の扱いが大きく、政治や経済関連の人の扱いが小さいような気がする。芸能人の場合だと、あまり著名でない俳優の死亡記事でも写真入りで報道され、著名な俳優ともなれば一面の記事にもなる。これに対し、政治家や経済人の場合は、よほどの大物や話題の人物でもない限り、写真入りは稀である。どちらが大事かという判断は難しいところだろうが、「読者がどちらに関心を持つか」という物差しが優先し過ぎると、ことの軽重を見損なう可能性もあるような気がする。
 複数の新聞を読んでいる人も多いだろうが、一般的に言えば、それはあまり期待できないだろう。世論が分かれているような案件の場合、新聞によって論調が随分違うケースもある。自分が読んでいる新聞だけに頼っていると、ついついその新聞の論調が唯一の正論であるようかのように思い込んでしまったり、ことがらの軽重の判断のバランスを失ったりして、世の中の流れやあるべき方向を読み誤る可能性があるということを、忘れてはならないように思う。(スペース・マガジン3月号所収)