「眞」と「真」(スペース・マガジン6月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。実は、これと似た小稿をかなり以前にこのブログに載せたことがあるので、あるいはご覧になった方がおられるかも知れない。


       [愚想管見]         「眞」と「真」    西中眞二郎

 数年前の話だが、新聞を広げたら、私の名前に使われている「眞」の大きな活字が目に飛び込んで来た。何だろうと思ったら、字の生まれた字源の話である。その記事を要約すると、次のようなことである。
 ―――よく知っている漢字に意外な由来がある。「白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい」によれば、名前に使うことの多い「真」の成り立ちは「行き倒れて死んだ人」という意味である。旧字体の「眞」は「匕」と「県」でできている。「匕」は死者のこと、「県」は首の転倒形。横死者、不慮の災難で行き倒れとなり死んだ人を示す字形である。―――
 これにはいささか参った。私の名前は自分では気に入っているし、「眞」という字は私の好きな字である。それだけに、裏切られたような気がしないでもない。私の両親に学がなかったと言ってしまえばそれまでだが、皇室にも「眞」の字を使っている方がおられるようで、皇室から御下問を受けた有識者も、字源を御存じなかったということなのだろうか。それとも、この学説自体が異端なのだろうか。その後パンダの名前にも「真」が登場した。いずれにせよ、この記事が大いに意外だったことは事実だが、依然として私は「眞」の字が好きである。
 話は変わる。「眞」は人名漢字では認められているが、常用漢字は「真」である。最近でこそワープロやパソコンの普及により「眞」の字も市民権を与えられているが、私の若かったころは、通常の場合、「眞」はあまり使われておらず、私の名前も「真」で代用されていた時代が長かった。役所当時の辞令、新聞記事、国会議事録等の印刷物で私の名前が出て来たときには、例外なく「真二郎」になっていたし、現在でも新聞記事ではその傾向がある。私自身も妥協して、若いころには「真二郎」という字体を使っていた時期もあった。
 常識的に言えば、どちらでも構わないようなものだが、インターネット等の場合には大きな違いがある。機械の上では、「眞」と「真」は全く別物のようで、パソコンを始めたころ、「西中眞二郎」を検索してみたら、心当たりのある記事が出て来ない。それではと「真二郎」で検索してみたら、ちゃんと載っていた。今でも、時折は「真二郎」でも検索してみるようにしている。「渡辺」さんや「渡邊」さんの場合なども、同じような問題があるのかも知れない。
 事務処理の機械化が緒につき始めたころ、カタカナ書きで機械的に処理されていた時期もあったようで、役所や企業からの大量処理の文書が届く折など、宛名がカタカナで表記されていたものも多かったように記憶している。さすがに昨今ではカタカナ書きの宛名はほとんど見受けないが、「真二郎」あての文書は今でも結構多い。
 年金のミスが大きな話題になったが、その原因の一つに、字体の違いやカタカナ書きのために、姓名の突合せが十分に行われていないという点があるようだ。「行き倒れ」から話が飛んでしまったが、単なる好みの問題だけではなく、「たかが字体、されど字体」、字体が実社会に影響を及ぼす可能性も無視できないようだ。(スペース・マガジン6月号所収)