安倍総理の特質(スペース・マガジン4月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


[愚想管見] 安倍総理の特質            西中眞二郎

 安倍総理の言動を見ていると、かつての小泉さんの言動と二重写しになって来る。小泉さんの特質について以前書いたことがあるのだが、個々の政策論は別として私なりに2点挙げれば、(1)国益や党益を離れて、自分自身の「信念」を頑迷に貫き通す姿勢 (2)総理として、あるいは総裁として、自分の持っている「権限」をフルに活用する権力主義――それが小泉さんの特質だと思う。特に後者については、いかに制度的に権限があるにせよ、その行使には自ずから節度を持つのが従来の「日本的感覚」だったと思うが、それをフルに活用し、しかも「おれは総理だ」と公言して憚らないというのは、いかにも小泉さんらしい(2005年9月号)。
 安倍総理は、この小泉さんの特質をそっくり受け継いでいるように思えてならない。また、その内容や手法にまで立ち入ってみると、右派的、国粋主義的傾向は小泉さんを上回るとも思えるし、やりたい放題の人事権の乱用その他、衣の下の鎧を隠そうとすらしていない露骨さが目につく。
 かつての「ねじれ国会」当時、「決められない政治」に対する批判が強かった。それだけに、「決められる政治」、「信念を持ったぶれない政治」に対する期待がねじれ国会の終結を生んだとも言えそうだが、それが果たして我が国にとって好ましい結果に繋がったのかどうか。
 「信念を持ったぶれない人」というのは、一般的に言えば一種の褒め言葉なのだろうが、一国のリーダーの場合、理性と総合判断力を欠いた方向違いの「信念」は、はた迷惑の極みである。「信念」を貫くために権力をトコトン活用するというのは、権力者としてのひとつの行き方ではあるのだろうが、「正義」は人の数だけあり、自分にとっての正義は他の人にとっての正義とは限らないというバランス感覚や迷いを持たない権力者、あるいは節度・謙譲といった「美徳」を持たず、自己の判断力を過信して薄っぺらな信念のままに権力を振り回すという権力者の存在は、もはや一種のファシズムとも言えるのではないか。もし安倍さんが「国民の信託を得た自分が、その信じるところに従って権力をふるって何が悪い」と考えているのだとすれば、それは謙虚さを欠いた思い上がりにほかならないと思う。この点は、安倍さんに限らず、橋下さんをはじめとする一部の独善的な自治体の首長にも共通する現代の病弊のような気もする。
 政権政党に関して言えば、かつては与党の中での「反主流派」が権力者の行き過ぎに対するブレーキ機能を果たしていたように思うが、小選挙区制とともに「反主流派」の影は薄れ、現在の与党のブレーキ機能は、悲しいことに安倍政権の暴走を脅かすだけの力を備えていない。小泉内閣当時、また第1次安倍内閣当時、「ファシズム前夜」ではないかという恐れを抱いていたのだが、いまやその域を脱して「ファシズム初日」に入っているのではないかという危惧の念を捨て去ることができないのが正直なところだ。後何年かこの調子が続くのだとすれば、取り返しのつかないところまで我が国が流されてしまうのではないかということが気懸りでならない。(スペース・マガジン4月号所収)