開き直りの論理(スペース・マガジン5月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


    [愚想管見] 開き直りの論理            西中眞二郎

 

政府のエネルギー基本計画が策定された。原子力発電の位置付けをはじめ、さまざまな意見があり得るところだろう。
 原子力発電というのは厄介なものだと思う。福島のような事故は論外としても、廃棄物処理の問題、廃炉問題、テロ対策とこれに関連しての秘密保持や作業員の管理の問題等々、頭の痛くなるような問題が山積しており、できれば手掛けずに済ませたいテーマだと言えるだろう。しかし、エネルギー源としての評価や地域社会・経済への影響を無視して考えたとしても、果たして手掛けずに済む局面なのかどうか。全く手つかずの分野であれば、答は比較的簡単で、全面否定という割り切りも容易だろう。しかし、現実の社会や経済は、多かれ少なかれ原子力発電の存在を前提として動いていることも否定できないし、人類は既に「悪魔」に魂を売り渡して、「傷を持つ身」になっているという面も否定できない。
 放射性廃棄物の問題が一番大きい問題だろうが、既に相当量の廃棄物が発生しており、仮に今原子力発電を止めたとしても、廃棄物問題から逃れることはできない。地震津波の影響にしても、原子力発電所が現に存在している以上、その運転を止めたとしても問題ゼロとの断定はできない。
 これらに劣らず重要なのは、技術と人間の問題である。廃棄物にせよ、廃炉にせよ、これらに的確に対応して行くためには、優れた技術と相当数の有能な技術者・技能者が不可欠である。仮に原子力発電を止めた場合、これらの人材を長期にわたって確保することが果たして可能なのかどうか。廃炉を進める場合、人材の重要性は、安定的に発電を続けている場合よりむしろ大きいだろう。「もとの十九に戻れる」なら問題は比較的単純だが、傷ついた体を抱えつつ最適な解答を求めることは、それほど楽な話ではない。
 以上は、いわば開き直りの論理であり、毒食わば皿までという論理かも知れない。しかし、現実の対応策としては無視できない重要な要素ではないだろうか。
 それではどうすれば良いのか。その答は、それぞれの施設の内容や属性に応じて、変わって来るのではないか。既存の発電所の再稼働の場合、巨大な投資は既になされており、これから要する運転コストは極めて低いものになるはずである。しかも、放射性廃棄物は既に生じており、発電所自体も既に「汚れた」存在で、再稼働によって生じる新たな問題は比較的少ない。
 これから作る発電所の場合はどうか。まだ汚れていないものを、稼働により汚すことになることは間違いない。しかし、これまでの実績からすれば、安全性に対する十分な備えさえあれば、新たに危険な道に踏み出すという要素は比較的小さいのではないか。
 使用済燃料の再処理の場合はどうか。稼働により新たに汚すという意味では新規の発電所と同じだが、発電所と異なり実績と言えるほどのものはなく、技術的にも経済的にも多くの課題を残しているものであり、国際的にも到底定着しているものとは言い難い。
 さまざまな局面や施設の性格に応じて、それぞれ異なる解答が求められるのではないか。(スペース・マガジン5月号所収)