大飯原発差止め判決に異議(スペース・マガジン7月号)

 例によって、スペース・マガジン(日立市で刊行されているタウン誌)からの転載である。


[愚想管見] 大飯原発差止め判決に異議       西中眞二郎

 
 5月下旬、大飯原発の再稼働を差し止める福井地裁の判決が出た。明快で歯切れの良い判決であり、快哉を叫んでいる向きも多いとは思うが、私には基本的な異議がある。
 まず第1に、その内容に関する疑問である。判決では、原子力発電の危険性を強調し、「本件原発の安全技術及び設備は、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立ちうる脆弱なものと認めざるを得ない」と断定している。また、「多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等を並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないと考える」と述べ、また、「運転停止で多額の貿易赤字が出るとしても、国富の流出や喪失というべきではなく」とか、更に「環境問題を原発の運転継続の根拠とするのは甚だしい筋違いだ」と断定している。
 この種のことがらには功罪両面あり、その利害得失や事故の起こる可能性等も参酌して総合的に比較検討した上で、判断すべきものだと私は考えており、これまでにも何度かこのコラムで触れて来た。賛否いずれにせよ、その比較の上に立って政策や制度が生まれて来るものだと私は思うのだが、今回の判決は、この種の比較を、「法的に許されない」、「甚だしい筋違い」等の一言で切って捨て、そのような比較をすることすら認めないという頑なな姿勢をとっている。また、安全性向上のための工夫や努力を軽視して原発の危険性を強調する一方、再稼働を認めないことによるマイナス面を極端に矮小化しているように思えてならない。言い換えれば、著しくバランスを欠いた視点から比較検討を行い、更にそのようなバランス感覚すら否定して、原子力発電を全面的に否定するに近い発想に基づいているものだとしか言いようがない。
 もう一つの問題、そしてより基本的な問題点は、その内容もさることながら、それが「司法権」という公権力によってなされたものだということだと思う。大飯原発は、現在政府機関により安全審査が行われている最中の案件であり、どのような形でその運転が認められるかどうかもまだ確定していない段階である。現在の法制は、安全性が認められたものについては運転を認めるという考え方に立っているが、規制当局による判断もなされていない段階で、裁判所が安全性を否定する判断をすることは、裁判官の「信念」が先に立った、現行法制を無視した暴走だと考えざるを得ない。
 もちろん、さまざまな考え方があることは当然であり、最後は人それぞれの世界観、人生観に帰着する問題だろう。この判決のような考え方を持ち、それを主張する方があっても、何の不思議もないし、これが市民運動のスローガンであれば、私がそれに賛成するかどうかは別として、間違った内容のものだと断定する積りはない。しかし、裁判は、裁判官の私見を主張する場ではないはずである。今回の判決は、「司法」の名の下に、「判決」に名を借りて、裁判官の個人的主張を押し通しているものに過ぎないと思う。原告や原告と主張を同じくする人々の中にも、今回の余りにも歯切れの良過ぎる判決に戸惑っている向きが多いのではないかとすら思う。(スペース・マガジン7月号所収)